自由になる前に、やりたいことをみつけておけ、という話

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雑記を書き始めて、2日目。旅行で滞在中のイタリアのフィレンツェから「僕自身が思考力を強化するための雑記ブログ」を投下したい。読者を想定していない、極めてエゴイスティックなブログである。

さて、現在僕は経営者という仕事をしている。とはいっても社員は僕一人の小さな会社である。そのため比較的自由にお金や時間を使うことが可能である。

そのような背景もあり、せっかくの時間的・経済的ゆとりを活用して、今年(2023年)のどこかで1ヶ月ほど海外に出たいと考えている。(いまもイタリア滞在中だが、今年もう一回行きたい)

そこで迷うのが、どこにいってなにをするかだ。

僕がこれまでの人生でよく聞いた言葉に「自由すぎるとなにをしたらよいかわからなくなる」というものがある。

これをきいたとき、正直鼻で笑った。そんなわけがあるか。自由、すなわちなにをしてもよい、そんな状態になれば迷いなく好きなことに好きなだけ取り組んでその瞬間を謳歌するのみだろう。自由なのに、何もできないなんてそんな愚かなことがあろうか。仮に人間の傾向としてそんな性質があったとしても、僕はそうじゃない。そう信じていた。

しかし実際問題、ある程度時間的・経済的に自由になると、本当に困る。これは完全な自由ではない、というのがミソかもしれない。自由にお金や時間をつかって動き回ることはできそうであっても、ファーストクラスが無限回使えるわけでもなく、5000年間遊び呆けられるわけでもなく、体力が無尽蔵に湧いてくるわけでもない。結局どんな自由も制限付きなんだよね。言葉の定義の問題だけど、寿命や体力に限りがある以上、完全な自由って起こり得ない。

つまり、「自由」という言葉の意味からこっそり削ぎ落とされた「見えづらい制限」の部分が地味にネックなのだ。

お金や時間にぼんやりした「見えづらい制約」がある中で、ある程度の自由を謳歌しようと思うと、無数にあるやりたいことリストの中から制限に合わせて優先度をつけて、「本当の本当にやりたいこと」を選定していかないといけなくなる。

この「本当の本当にやりたいこと」ってのが案外決められない。楽しさを取るのか、自己成長をとるのか、さまざまなファクターが絡んでくるので、やりたいやりたくないの一元的に決めることができない。

例えば今回の僕のケースだと、資金面、時間面で、アメリカにも東南アジアにも両方行くことはできないので、どちらかを選ばないといけないが、その判断を行うにあたって、自分が何をやりたいかを明確にしないといけない。それはじっくり前もって考えてないと本当に難しい。

自由な状態になっても決められないのだから、仕事などに忙殺される日々で、本当にやりたいことを見出して取り組むことってもうほぼ無理なんじゃないかと思う。

そういう事情を踏まえると、お金や時間の自由を手に入れられるかどうかに関わらず、日頃から自分の「本当にやりたいこと」を明確にしておいて、そのためにどうすればよいか情報を集める作業を繰り返しておかないと、充実した一生が送れないような気がしている。

端的にまとめると、

急に自由になっても、やりたいことって案外決められない。

自由になってすら、やりたいことがわからないのだから、自由になっていない状態でわかるはずもなく、やりたいことができるはずもない。

自分が何をやりたいか、自分がどんな人間になりたいか、そしてそのためにどうすれば良いかを、常々考える必要がありそう。

 

僕の文章ってなんか、暑苦しいよね。

自覚はしている。

もっと、爽やかなそよ風みたいな文章をかきたい。もちろん、説得力付きの。

では。

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