書くことを通して得られるものとはなにか? -『書ける人だけが手にするもの(齋藤孝 著)』を読んで-

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先日齋藤孝さんの『書ける人だけが手にするもの』を読了した。

ものを書き続けた人が最終的にどんなものを手に入れるのか、という主題の本である。

書くことによる大きなメリットを期待して日々ブログ更新に勤しむ僕にぴったりの本であった。

個人的に面白かった、勉強になった部分を抜粋したい。

 

ではさっそく始めていく。

一つ目。

自分が何を考えているのか、何を感じているのか、おそらく最初から完全に把握している人などひとりもいません。かといって、頭の中で考えているばかりでは、考えがぼやけてしまったり、堂々めぐりになったりして、思考を深めていくことは難しいでしょう。文章を書くというのは、自分の内側にあるものを文章という目に見えるかたちにアウトプットするというプロセスです。このプロセスそのものが、実は思考を深める行為でもあるのです。

齋藤 孝. 書ける人だけが手にするもの (Japanese Edition) (Kindle の位置No.185-189). Kindle 版.

ここまで明快に言語化してくれてありがたい気持ちになった。

僕を含め、コミュニケーションが苦手な人、自己表現が苦手な人、プレゼンやスピーチが苦手な人はこの部分を肝に銘じたい。

そもそもひとは、結局自分が考えていることや感じていることを “把握” できていないのだ。この主張を読み、僕は背筋が伸びる気持ちになった。

それとともにブログを書き続けていることが自分にとって非常に有用であるという、自分の判断が誤っていないことを確信した。

 

ひとは自分の感情や思考を把握できていないから、会話で気持ちをうまく話せないし、急に意見を求められても言葉に詰まるのだ。

当然だ。視力0.1の人間に遠くの道路標識を読み上げろと言っているようなもので、何も見えていないから、当然言葉にできない。

普通にしていたら、会話やスピーチに困るのが当たり前なのね。

 

みんな頭で考えて、考えたつもりになっている。

でも、難しい数学の問題を解くときに頭の中で解けるわけがないのと同じで、書かないと考えなんてロクにできないということだ。

だから、日頃書いている人間と、書いていない人間の間には、雲泥の差ができる。少し喋ればわかるレベルで、明確な差ができるわけだ。

 

では2つめ。

文章を書こうというとき、たいていは、「なんだか、これについて考えようとするとモヤモヤする」「モヤモヤするから考えてみたい」というところから始まります。

齋藤 孝. 書ける人だけが手にするもの (Japanese Edition) (Kindle の位置No.327-328). Kindle 版.

 

毎日生きていれば、言葉に詰まるシーンや、思考が整理できないシーン、自分の感情の説明ができないシーンなど、たくさんのもやっとする場面に出くわすだろう。

それを言語化していくところから始めるのが良いとのことだ。

もやもやするということは、脳内だけでうまく思考が深められなかったとも言えるので、そういうことこそ書いて整理しつつ思考のトレーニングを積み重ねていくべき。

 

 

では次。

最初に問いを立てれば、それがフックとなって、さまざまな思考や情報を引っかけはじめます。こうして文章の材料が揃い、構成の見通しが立っていくわけです。

齋藤 孝. 書ける人だけが手にするもの (Japanese Edition) (Kindle の位置No.347-348). Kindle 版.

 

モヤモヤを書く、ことの一つの手段として、問いを立てることが重要っぽい。

頭の中で答えられない『問い』は、書く価値がある。

そして、読者を惹きつけやすいものである。

 

『なぜ俺はモテないのか?』

『なぜ宇宙は誕生したのか?』

『なぜ人は匿名掲示板やSNS等で他人を批判しまくるのか?』

『お金が無限にあったら自分は何をするだろうか?』

『松本人志はどうやってユニークな発想をしているのか?』

 

こういう日頃ふとした瞬間に浮かぶはてなマークに、ものを書くための題材のヒントが詰まっている。

こう言った難題を書いて考える習慣がある人に、何もしていない人が勝てるわけないよね。

日々山にこもって剣の修行をしている武者といきなり決闘をして勝てるわけがないのと同じ。

 

これまで僕は、こう考えていた。

学生と違って、大人になればテストを受けることもなくなり、他人との能力差がぱっと見てわからなくなる。

能力を示すには仕事の出来や収入等で判断するしかない。

 

でもいまはこうおもう。

人は会話するときに、日頃の思考トレーニングの成果がもろに出てしまうので、わかる人にはその人の能力が手に取るようにわかる、と。

 

自己成長を続けて人間的魅力を増したいと考える僕は、書くことを愛し続けていきたいと強く思う。

 

では続いて。

こうして具体と抽象を自由に行き来できるような力がつくと、その力に比例してものの見方が鋭くなっていきます。「どのように抽象化し、どのように具体化するか」は自分独自のものであり、書き手としてのオリジナリティでもあるからです

齋藤 孝. 書ける人だけが手にするもの (Japanese Edition) (Kindle の位置No.761-763). Kindle 版.

 

同じ事象について、複数の人間が語るとしよう。

ある人間は淡々と面白みもなく語り、ある人間は独自の切り口で考察し、人を感心させたり魅了したりするだろう。

どちらでありたいか。前者であれば、このブログをそっと閉じたほうが良いかもしれない。申し訳ないが筆者とあまりにも価値観が違う。

 

後者を目指すのであれば、具体と抽象を行き来するトレーニングが必須だ。

『具体と抽象の行き来の仕方』にこそ独自性、切り口の面白さ、そしてアイデンティティが宿るのだろう。

 

そして最後。この箇所は、僕の理解によると、この本のもっとも伝えたいことであり、エッセンスであり、秘伝のタレである。

見事に僕に新しい視点をもたらしてくれた。

書くことを身につけることで得られる最大のものとは何でしょうか。それは、「認識力が磨かれること」だと私は考えています。書くという行為は、自分の内側をランタンで照らしていくような作業であると先に書きました。自分の中にあるモヤモヤとはっきりしない思考や感情に対して、一つひとつ的確に表現できる言葉を探し出し、文章として刻みつけていく。このように「言葉を探す」「文章を連ねる」という作業を丁寧にくり返すことで、身のまわりにある曖昧模糊とした物事を深く鋭くとらえられるようになります。この「物事を深くとらえる力」こそが認識力であり、書くことが与えてくれる最大の恩恵なのです

齋藤 孝. 書ける人だけが手にするもの (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1330-1336). Kindle 版.

 

認識力。素晴らしく的確な言葉だと思う。

 

同じものを見ても、食べても、聞いても、触っても、あるひとはより高い解像度で、広く深く認識できているのに、あるひとはできていない、ということがある。

一度の人生、ピントの合ったメガネをかけて世の中のすばらしいものごとを認識していきたくないか?

より深いレベルで他人を認識し、深く関わりたくないか?

認識力を高めることにより、他人の悲しみや喜びといった感情を、その本人以上に理解して言語化することも可能なんだろうとおもう。そんなことをもしされたら、他人からすると魔法使いに見えるんじゃないか?でも理屈上はできてもおかしくないよね。冒頭で書いた通り、人は自分の思考や感情すら把握できないのが普通なのだから、日々それらを把握するトレーニングを積んでいれば、他人の内面だろうとくっきりはっきり見ぬけるだろう。

そういう人間は、やはり他人を魅了し、尊敬され、リードする立場にたつのだろう。

僕がイメージする認識力の高い人は、マツコ、ヒカル、有吉、ホリエモン、ひろゆき、とかそのあたり。端的に言えば、バチバチに頭の切れるひとたちであり、カリスマ性を備えた人である。

 

書くことを通して、そんな人に近づけるうえに、世の中をものごっつい理解して楽しめるわけだ。

書かない手はないだろう。

書くことは値段のつけられないほどの価値があるとおもう。それこそプライスレス。

ぜひみなさんも、一生涯、書き続けていきましょう。

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