失礼な人間にいちいち腹を立てないで生きていきたい
ここ数日、コボちゃん作文に取り組んでいた。コボちゃん作文とは、コボちゃんの四コマ漫画を、原稿用紙一枚分程度、つまり400文字程度の文章で説明するという文章力のトレーニングだ。 しかし、もう終わりにしようと思う。 コボちゃん作文によりメキメキと「認識力」が身につくことを期待したが、実際に取り組んでみて、文章力はつくものの認識力の伸びはそこまで大きくないと実感した。 というのも、やはり既存のストーリーを描写するだけの訓練では自分で考える力が大して求められないからだ。 作文を通して文章は綺麗になるかもしれないが、他人の持っていない視点を得たり、高い解像度で事象を捉えたりするといった、認識力の向上につながりそうにない。 さらに僕はきれいな文章を書きたいわけではなく、汚くて独特の文体でも、人の心に訴えかける文章を書きたいのだ。 そういう経緯があり、コボちゃん作文は一旦終わりにしたい。 さて本題だが、今日は、いつもに増して、人にイラッとしてしまう日だった。 正論を言われても、なぜかいらっとしてしまう。 自分の気が立っていたのか、相手の口調がまずいのか、いまとなってもわからない。 月曜日で憂鬱なのはみんな同じだろうから、案外両方とも原因かもしれない。 ただ、理由のいかんによらず、他人にイラつくような人間にはなりたくないと僕は常々思う。 他人の無作法に乱されず、そよ風を受けるくらいの気持ちで受け流せる人間になりたいわけだ。 無作法な人間って、正直にいえば、そこらじゅうにいる。 さらに、日頃は礼儀正しく、口調も丁寧である人だとしても、ちょっと時間に追われていたり、タンスに小指をぶつけたりすれば、少し気が立って棘のある態度になりうる。 そんな相手にいちいち腹を立ててる人間が幸せだろうか?周りから尊敬されるだろうか?人に囲まれて愛されるだろうか? 腹を立てずに受け流せる人間のほうが、充実した人生を送れると思うんだよね。 もちろん、主張すべきところはすべきだし、度が過ぎた行為に対して警告をするなどの対処は必要である。脳内お花畑になれと言っているわけではない。 言い方に多少の棘があったり、少し失礼な態度を取られたくらいのちっちゃなことで腹を立てないようにしたいということだ。 例えるなら、ブッダやキリストみたいなイメージ。(知らんけど) まぁもっとわかりやすく言えば、マザーテレサとかかな。 でも難しいよね。 正論ですら、指摘されたら受け入れられないよね。 どうするんがいいの。まじで。悩むよね。 これに対処する方法はいくつかあると思っている。 こういうことをモヤモヤと頭の中で考え続けずに文字にできるのが書く習慣の最高なところだ。 これから対処法を挙げていく。 さて、まず一つ目だ。 僕がかつて読んだ超絶名著で、原始仏教の教えを解く「反応しない練習」という本がある。 これには、いらだちやかなしみ、恐怖といったネガティブ感情に襲われても、「心が反応をしない」ように訓練せよと書いている。 こういう知識も鍛錬もなく漫然と暮らしていれば、ネガティブ感情に振り回されることになる。 そして「あ〜人生って辛いことばっかだな」と愚痴り、周りにマイナスを撒き散らしながら生きていくことになる。 この本は、Amazonレビューでも鬼のような高評価を得ているので、読んでいない方はぜひ読んでほしいが、やはりこういう、反応しない鍛錬というものが、相手にイラつかないための一つの手だろう。 ぼくも意識はしているが、日常的にふいにおそってくる失礼なワードや態度に完全に対応しきれていない。 続いて二つ目。 少し危険思想寄りな対処法だが、失礼な相手に振り回されないためには、ディベート能力と、肉体的な戦闘能力を高めることがかなり効くはずだ。 実際に喧嘩したり、口論をふっかけるわけではなく、この失礼な相手に、論戦でも肉弾戦でもいつでも勝てると本心から思えるほど強くなれば、「自分が許してあげている」状態になる。 こうなると、心に余裕ができる。いつでも相手の肉体または精神に致命傷をあたえることができるけど、自分の広い心によって押さえているわけだ。 幼稚園児が多少失礼な言動をしても、ガチギレする人は少ないだろう。 相手が圧倒的に弱い存在であれば、イライラすることもかなり押さえられると考えられる。 …