雑記

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失礼な人間にいちいち腹を立てないで生きていきたい

ここ数日、コボちゃん作文に取り組んでいた。コボちゃん作文とは、コボちゃんの四コマ漫画を、原稿用紙一枚分程度、つまり400文字程度の文章で説明するという文章力のトレーニングだ。 しかし、もう終わりにしようと思う。   コボちゃん作文によりメキメキと「認識力」が身につくことを期待したが、実際に取り組んでみて、文章力はつくものの認識力の伸びはそこまで大きくないと実感した。 というのも、やはり既存のストーリーを描写するだけの訓練では自分で考える力が大して求められないからだ。 作文を通して文章は綺麗になるかもしれないが、他人の持っていない視点を得たり、高い解像度で事象を捉えたりするといった、認識力の向上につながりそうにない。 さらに僕はきれいな文章を書きたいわけではなく、汚くて独特の文体でも、人の心に訴えかける文章を書きたいのだ。 そういう経緯があり、コボちゃん作文は一旦終わりにしたい。   さて本題だが、今日は、いつもに増して、人にイラッとしてしまう日だった。 正論を言われても、なぜかいらっとしてしまう。 自分の気が立っていたのか、相手の口調がまずいのか、いまとなってもわからない。 月曜日で憂鬱なのはみんな同じだろうから、案外両方とも原因かもしれない。   ただ、理由のいかんによらず、他人にイラつくような人間にはなりたくないと僕は常々思う。 他人の無作法に乱されず、そよ風を受けるくらいの気持ちで受け流せる人間になりたいわけだ。 無作法な人間って、正直にいえば、そこらじゅうにいる。 さらに、日頃は礼儀正しく、口調も丁寧である人だとしても、ちょっと時間に追われていたり、タンスに小指をぶつけたりすれば、少し気が立って棘のある態度になりうる。   そんな相手にいちいち腹を立ててる人間が幸せだろうか?周りから尊敬されるだろうか?人に囲まれて愛されるだろうか? 腹を立てずに受け流せる人間のほうが、充実した人生を送れると思うんだよね。   もちろん、主張すべきところはすべきだし、度が過ぎた行為に対して警告をするなどの対処は必要である。脳内お花畑になれと言っているわけではない。   言い方に多少の棘があったり、少し失礼な態度を取られたくらいのちっちゃなことで腹を立てないようにしたいということだ。 例えるなら、ブッダやキリストみたいなイメージ。(知らんけど) まぁもっとわかりやすく言えば、マザーテレサとかかな。   でも難しいよね。 正論ですら、指摘されたら受け入れられないよね。   どうするんがいいの。まじで。悩むよね。   これに対処する方法はいくつかあると思っている。 こういうことをモヤモヤと頭の中で考え続けずに文字にできるのが書く習慣の最高なところだ。 これから対処法を挙げていく。     さて、まず一つ目だ。 僕がかつて読んだ超絶名著で、原始仏教の教えを解く「反応しない練習」という本がある。 これには、いらだちやかなしみ、恐怖といったネガティブ感情に襲われても、「心が反応をしない」ように訓練せよと書いている。 こういう知識も鍛錬もなく漫然と暮らしていれば、ネガティブ感情に振り回されることになる。 そして「あ〜人生って辛いことばっかだな」と愚痴り、周りにマイナスを撒き散らしながら生きていくことになる。 この本は、Amazonレビューでも鬼のような高評価を得ているので、読んでいない方はぜひ読んでほしいが、やはりこういう、反応しない鍛錬というものが、相手にイラつかないための一つの手だろう。 ぼくも意識はしているが、日常的にふいにおそってくる失礼なワードや態度に完全に対応しきれていない。     続いて二つ目。 少し危険思想寄りな対処法だが、失礼な相手に振り回されないためには、ディベート能力と、肉体的な戦闘能力を高めることがかなり効くはずだ。 実際に喧嘩したり、口論をふっかけるわけではなく、この失礼な相手に、論戦でも肉弾戦でもいつでも勝てると本心から思えるほど強くなれば、「自分が許してあげている」状態になる。 こうなると、心に余裕ができる。いつでも相手の肉体または精神に致命傷をあたえることができるけど、自分の広い心によって押さえているわけだ。 幼稚園児が多少失礼な言動をしても、ガチギレする人は少ないだろう。 相手が圧倒的に弱い存在であれば、イライラすることもかなり押さえられると考えられる。    …

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文章力アップを目指して「コボちゃん第966回」を題材に作文トレーニングをしてみた。

今日もコボちゃん作文を書きます。 僕は人を笑わせられる文章を書きたいので、コボちゃんのストーリーをできるだけ面白く伝えられるように文章を作っていきます。 基本的に自分の文章力強化のために書いている文章ですが、興味のある方は読んでもらえたら嬉しいです。 では早速始めていきます。あとで実際のコボちゃんの漫画も貼ります。     コボちゃんとお母さんが道を歩いていたら、家族ぐるみの知り合いであるサヨコちゃんとお母さんに出会います。 道端でばったりあったコボちゃんたちは、挨拶をして会話を始めます。 サヨコちゃんはコボちゃんと同じ歳くらいの、とっても笑顔の素敵な可愛らしい女の子。 そのサヨコちゃんに向かって、コボちゃんのお母さんは、サヨコちゃんの笑った時にできるえくぼがとってもかわいらしいねと話しかけます。 人が集まっている場で、他の誰かが褒められている時、あー自分にはその美点がないのだな、と気づくことがあるかもしれません。 例えば複数人いる場で、他の誰かが「あなたって小顔だね〜」と褒められていたら、自分は特に小顔ではないと考えざるを得ません。 もちろん、この程度のことで目くじらを立てたり、傷ついたりしていては、人付き合いが全く楽しくなくなります。 そのため、大抵の大人はいちいち反応せず、受け流すことでしょう。また、そんなことは日常茶飯事ですので、大人になれば似たことを何回も経験していて慣れっこです。 でもやっぱり、本当の心の奥底を覗くと、大人であってもちょっとだけ気にしたりするかもしれません。特にちっちゃい子の場合は。 さて、そのあとコボちゃんが家に帰って、なにをしたか。 大人なら、何も気にせずスルーするところですが、他の子が褒められた様子をみてコボちゃんは傷付いてはいないもののちょっぴり気になります。 僕もエクボがあったら、可愛いって言われるのかな?なんて考えたかもしれません。 コボちゃんは、家にあるお茶の急須を見つけます。その急須は、取手部分が取り外せるようです。 その急須の取手をコボちゃんは両頬を挟むように押しつけ、ほっぺたを窪ませてみます。 背景事情を知っている人が見れば、健気なコボちゃんです。 そんなコボちゃんを背景を知らないおじいちゃんが見かけて、はて、一体なにをしているんだろうと言った顔で眺めています。     以上。 実際の漫画を載せておこう。   (引用元: 40周年記念-コボちゃん傑作選 (単行本) 植田 まさし)   ここからは例の如く感想戦だ。 コボちゃん作文を面白く書くのは、難易度がほどよい。 もともと、クスリと笑える構成になっているので、構成を考えるところに労力を割く必要がなく、文章力で『より面白くする』ところに注力できるからだ。 ただ、文章力でおもしろくするのも相当な技術がいると思う。 会話であれば声のトーン、身振り手振り、話の勢いや間の取り方で面白さを増幅することが出来るが、文章となるとそう簡単にはいかない。 言葉の力だけを使って話を面白くするのは、自分のユーモアスキルを高めるための非常に良い訓練になりそうだ。   続けていこう。

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文章力アップを目指して「コボちゃん第523回」を題材に作文トレーニングをしてみた。

今日から自分の文章力のために、コボちゃん作文をやっていこうと思う。 前置きが長いと自分の作文習慣が続かないのでサクサクいくぞ。 では始める。     コボちゃんは幼稚園で、他の園児や先生とお絵描きの時間を過ごしている。 先生が園児たちにお題を出す。手元にある10本近くのクレヨンを全て使って絵を描いてみましょうというお題だ。 予想外のお題に子供達は案外苦戦して、友達同士で相談し始めた。 それをみかねた先生も園児にアドバイスをするが、その様子に見向きもせずコボちゃんは一人黙々と筆を走らせていた。 コボちゃんが悩むこともなく絵を描く様子に周りの園児たちも気づいて、何を描いているかとざわつき、コボちゃんの元へ集まる。 そこで周りの園児は、コボちゃんの描いている絵を見て、コボちゃんの臨機応変さに思わずうなる。 コボちゃんが書いていたのは『10本近くあるクレヨンのそのものの絵』であった。       コボちゃん作文は以上だ。 実際の漫画を載せておこう。   (引用元: 40周年記念-コボちゃん傑作選 (単行本) 植田 まさし)     さて、感想戦といこうか。 まずコボちゃん作文に初めて取り組んでみて、文章力向上を目論みはじめたばかりの僕に取って、難易度が非常に程よいと感じた。 おそらく小学生でも難なくこなえるトレーニングだろう。僕も、小学生レベルとは流石に言わないが、文章力への自信が皆無なので、このくらいがすごくちょうどいい。 そして、普段みつけてもさらっと読み流してしまうコボちゃんの漫画をしっかり読むことがすごく楽しいし、自分の言葉で表現する行為も非常に快感を感じる。 著名人がこの文章トレーニングを絶賛しているので、このまま続けていけば文章が上手くなると確信めいたものを抱きながら取り組める点が、楽しさに拍車をかけているとも思える。   せっかくなので、要約して終わりではなく、このコボちゃんの話に対する感想も、書き綴ってみようと思う。   発想力のある人間や機転の効く人間は、どの場に行っても一目置かれると思う。 おそらく幼稚園児のコボちゃんも、先生のちょっと捻ったお絵描きのお題に対して、ハッとするような機転の効いた対応を取った。 そして、機転が効いてるのに、周りに自分のアイディアを吹聴するでもなく、地道に作業に取り組む様は、みてて嫌な気持ちがしない。 機転が効いていても、それを自分自身が自覚して得意げになっている人を見たら、少し可愛げがなくて、素直にすごいと言えない気分になるのは僕だけだろうか。 もしコボちゃんのそんな姿が描かれていたら、読者もそっと離れていってここまで有名漫画にはなっていないだろうな。 機転が効いているのに、調子に乗らないコボちゃんには、周りの園児も集まってきている。 少し大袈裟だが、人が集まる人間、すなわち人望のある人間というところを目指したい大人は、見習えるところがあるかもしれないね。     感想はそんなところかな。   コボちゃんの要約と感想を描いてみて、自分の文章に対して思うのは、自分は文章を綺麗に描こうとしすぎて、ハートが伝わってこない感じになってるかも。 上手い文章より、人の心を打てる文章を書きたい。 もっとそこら辺を意識して次回に臨みます。   では!

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人前で話すときや議論するときに脈が早くなり過呼吸気味になるのはなぜ?対処法は?

僕は人前で話すときや人とちょっと意見が対立して議論するときに、心臓がバクバクして過呼吸気味になる傾向が強い。 赤面したり、汗が吹き出したりはしないものの、気が狂いそうなほどに脈拍が早くなり、呼吸も浅くなって十分にできなくなる。 呼吸が浅くなると何が起こるかというと、声を出すための息の量と強さが足らなくなり、まともに言葉を発せなくなる。 同じような人もいるだろうか?みんな多かれ少なかれ緊張することはあるとは思うが、僕ほどに症状が出てる人はあまりいないように感じる。   なぜだろう。いつからだろう。 そんなふうに考え続けても、答えは出ず、解決ができない。 こういうモヤモヤすることがブログにとっては非常に良い題材となるので、今回もブログで原因や対策を考えていきたいと思う。 このブログの読者の方に少しでも役立ってくれると嬉しいが、このブログは自分自身の『認識力』の向上のために執筆しているので、役に立たなければごめんなさい。   さて。僕の症状についてもっと詳しく分析してみよう。 まず言えるのは、人前に立った時と、他人と口論に近い議論をするときで、ほとんど同じ症状が出ているということだ。 いずれの場合も、前述の通り、脈が高速になり、呼吸が浅くなる。さらに呼吸が浅くなることで、安定して出力できず、声が震えてしまう。 その状況になるともうだめだ。 声が震えると『自分の焦りを悟られているのではないか』と感じられて、ますます症状が悪化する。   さらに言えば、過去に口論になりかけたシーンを想像して、『あの時自分がこう言ったらどう返されるだろう?』とか少し振り返ってシミュレーションしているだけでも脈が早くなる。 実際に相手に対峙していないし、実際に言われた言葉ではなく自分が想像したやり取りの中でも、症状が出てくるわけだ。   こんな自分が嫌になる。 はっきり言えば、めちゃくちゃ恥ずかしい。 人前で話せない=自分に自信がない=小心者=弱者男性などとぐるぐる考えてしまい、自己嫌悪に陥ることになる。   たまにYouTubeやTwitterで、路上などで一方的に絡んでくるクレーマーに対して淡々と反論している動画を見たり、ディベート動画を見たりするわけだが、自分にはそれができないだろうと思う。 すぐに息が浅くなるというか、声が詰まるような状態になり、徐々に頭の中も真っ白になってまともに言葉を発せなくなるだろう。   これはなぜか。考えられる理由はいくつかありそうだ。 ・言い負かされて人に笑われることが怖い ・人前で自分の会話能力の低さを露呈してしまうことが怖い ・自分の話している内容に自信がない ・過去に口論で負けたりしたときのトラウマ ・議論に勝てた経験の少なさから、勝てる自信がない ・いちいち議論に負けたり、人前で恥をかくことに対して極端に恐れてしまう、プライドの高さ あたりだろうか。     上記を踏まえると、主に自分の会話能力の低さ(厳密に言えば、会話能力に対する自信)と、会話の場数と、プライドの高さが大きな原因かもしれない。 もし仮に、自分が自分や他人を以下のように認識していれば、この状態にならないと思う。 ・自分は弁論技術が高い ・自分はユーモアセンスが高い ・自分は頭の回転が速い ・自分は自分の言葉で人を魅了してきた ・自分は自分の言葉で人に議論で買ってきた ・変なことを言ったって、いいじゃない、それが自分の言葉なんだから ・自分ってそこまで大した人間じゃないから、議論に負けることだってあれば、人前でうまく話せないこともある ・赤面症の人がいたりするし、自分だけが人前に立つことが苦手なわけではない ・口論や議論の相手は絶対的な敵ではない、(大抵の場合)話せばわかる味方である こんなふうに認識できたら、おそらく人前で堂々と振る舞えるし、口喧嘩でもビビらず戦える。   ではこのように認識を変えるために、どうすべきか? ここで精神論に頼らず、具体的なアクションをあげることが重要だと思う。 精神論で自分が変えられた試しがほとんどないからだ。   具体的なアクションを考える前に、話が上手い人のエピソードを少し思い出したので書いておきたい。 有吉とヒカル(YouTuber)の話だ。…

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書くことを通して得られるものとはなにか? -『書ける人だけが手にするもの(齋藤孝 著)』を読んで-

先日齋藤孝さんの『書ける人だけが手にするもの』を読了した。 ものを書き続けた人が最終的にどんなものを手に入れるのか、という主題の本である。 書くことによる大きなメリットを期待して日々ブログ更新に勤しむ僕にぴったりの本であった。 個人的に面白かった、勉強になった部分を抜粋したい。   ではさっそく始めていく。 一つ目。 自分が何を考えているのか、何を感じているのか、おそらく最初から完全に把握している人などひとりもいません。かといって、頭の中で考えているばかりでは、考えがぼやけてしまったり、堂々めぐりになったりして、思考を深めていくことは難しいでしょう。文章を書くというのは、自分の内側にあるものを文章という目に見えるかたちにアウトプットするというプロセスです。このプロセスそのものが、実は思考を深める行為でもあるのです。 齋藤 孝. 書ける人だけが手にするもの (Japanese Edition) (Kindle の位置No.185-189). Kindle 版. ここまで明快に言語化してくれてありがたい気持ちになった。 僕を含め、コミュニケーションが苦手な人、自己表現が苦手な人、プレゼンやスピーチが苦手な人はこの部分を肝に銘じたい。 そもそもひとは、結局自分が考えていることや感じていることを “把握” できていないのだ。この主張を読み、僕は背筋が伸びる気持ちになった。 それとともにブログを書き続けていることが自分にとって非常に有用であるという、自分の判断が誤っていないことを確信した。   ひとは自分の感情や思考を把握できていないから、会話で気持ちをうまく話せないし、急に意見を求められても言葉に詰まるのだ。 当然だ。視力0.1の人間に遠くの道路標識を読み上げろと言っているようなもので、何も見えていないから、当然言葉にできない。 普通にしていたら、会話やスピーチに困るのが当たり前なのね。   みんな頭で考えて、考えたつもりになっている。 でも、難しい数学の問題を解くときに頭の中で解けるわけがないのと同じで、書かないと考えなんてロクにできないということだ。 だから、日頃書いている人間と、書いていない人間の間には、雲泥の差ができる。少し喋ればわかるレベルで、明確な差ができるわけだ。   では2つめ。 文章を書こうというとき、たいていは、「なんだか、これについて考えようとするとモヤモヤする」「モヤモヤするから考えてみたい」というところから始まります。 齋藤 孝. 書ける人だけが手にするもの (Japanese Edition) (Kindle の位置No.327-328). Kindle 版.   毎日生きていれば、言葉に詰まるシーンや、思考が整理できないシーン、自分の感情の説明ができないシーンなど、たくさんのもやっとする場面に出くわすだろう。 それを言語化していくところから始めるのが良いとのことだ。 もやもやするということは、脳内だけでうまく思考が深められなかったとも言えるので、そういうことこそ書いて整理しつつ思考のトレーニングを積み重ねていくべき。     では次。 最初に問いを立てれば、それがフックとなって、さまざまな思考や情報を引っかけはじめます。こうして文章の材料が揃い、構成の見通しが立っていくわけです。 齋藤 孝. 書ける人だけが手にするもの (Japanese…

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無名で凡人な人がブログを読んでもらうためにすべきことは?

会話力や思考力をつけるために最近はブログを投下しまくっている。 だが、ただ自分の思考を掘り下げるだけでは、ただ惰性で文章を書いていてもよく、効果が薄いように感じ始めた。 もっとヒリヒリした、緊張感ある環境でトレーニングしないと、コミュ力界の大谷翔平はうまれない。 パワプロでいう、タッグトレーニングのような、経験値倍増の練習手法をなんとか見つけたい。   ただ自己満日記を書いているだけでは、文章の質や思考の質にこだわりが持てない。 なぜなら、メチャクチャな文章を書いても恥ずかしくもないし評判が落ちることもなく、失うものがないから。   もっとプレッシャーを浴びながら書きたいんですよ。。   ただそこで大問題がたちはだかる。   『だれも無名の凡人の文章なんてよまない』問題だ。     これがきびしい!実に厳しい!読まれたいのに、誰も読んでくれやしない。 はてぶとかならまだましかもしれないが、実はこのブログのドメインパワーを鍛えて自分の資産にしたい下心もうっすらあるので、このブログで続けたいんだよね。   なんて中途半端な、エゴイスティックな野郎だ!と思われるかもしれないが、あえてこの無名の個人ブログを鍛えていきたいんですよ。資産的な意味でも、やりがい的な意味でも。 かつて弱小だった楽天イーグルスを育てて優勝させた星野仙一監督の気分を味わいたいんですよ。     話を戻すと、文章力や思考力を高めるには、もっと人目にさらされた環境で人に読ませる文章を書く必要があるが、弱小個人ブログしか持たない僕の文章なんて誰も読まないと言う課題があるわけだ。 ブログを書くたびにツイートしているものの、悲しいくらいに記事リンクをクリックしてもらえない。   この対策としていくつか考えはある。 ・Twitterのフォロワー数を伸ばして記事ツイートをとにかく人目に晒してアクセスを増やす ・SEO対策をちょいちょいいれていく ・人気のあるブロガーを何人も分析する などなど。   Twitterのフォロワーを伸ばすのは、本当に気合を入れないとかなり難しい。 自分の軸をぶらさずに発信し続けないといけない。例えばエンジニアとして界隈で知名度のあるキャラを作っていくのであれば、エンジニアリング関連以外のツイートは避けるべきだし、『今日うちのかわいい犬をドッグランに連れていきました』なんて可愛いツイートをするなんて言語道断。。。らしい。どこかで読んだ。 しかもコンスタントに毎日何個もツイートをし続ける必要があるようで。 そんな、仕事みたいになっちゃうと、つまんないよね。書くと言う行為は楽しくないと続かない。僕にはTwitter運用はなかなか難しそう。(諦めないけど・・!)   SEOを伸ばす路線も、Google様が世の中に解き放っているBot様に気に入られるような構成にして、検索キーワードを無理やり文章中に散りばめまくって、、とかしてたら死ぬほど文章を書くことがつまらなくなるので、却下したい。 記事を読んでもらうのも大事だが、僕にとって『文章を書き続けること』が最も重要な目標なのだ。 楽しくなくては絶対に続かないので本末転倒であり言語道断。 文章を書くことが、息をするように当たり前になってきたら、余力でSEO対策を考えてもいいかもしれないが、いまじゃない。   最後の人気のあるブロガー分析は、いいかも! 例えば文体や自身の売り出し方などめちゃくちゃ学びが多そう。 しかも手っ取り早く取り組めるし、自分が興味のある内容だからまず楽しいのは間違いない。 もし仮に自分を散々にこき下ろす文章を赤の他人にされたらいやだが、冷静に分析して賞賛する分には問題ないでしょ。 次はこの辺りをやってみよう。   いつも僕をうっとりさせる文章を書くのは、 ・やまもとりゅうけんさん ・ずんずんのずんずんいこうさん あたりだ。   後日、詳しく分析してみようと思う。   では。…

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コミュ力不足に悩む毎日を脱したくて『失敗した会話』について考察してみた

日頃から僕は、コミュ力を磨きたいと強く思っている。 そのためには書くことが必要だと確信しているのでこのブログを書いていたりそれなりの努力はしているつもりだ。 ただリモートワークで働いていることもあり、直接他人と話す機会はとにかく少ない。実践練習が足りていないのだ。 そのためいざ他人とのリアルの会話シーンに直面するとまだまだ自分のコミュ力が足りてないことを痛感させられて、悔しいと共にいい刺激になる。   今日もコミュ力不足を実感した。   ボクシングジムの体験レッスンに行った時のコーチとの会話だ。 コーチはタイによく行っているようで、何回も行っているうちに、英語よりもタイ語の方が出てくるようになったという話をしていた。 つまり、日本語の次の第二言語がタイ語になってしまい、英語で話している時もタイ語で考えるシーンがあったり、ぽろっとタイ語が出るようなことがあるとのこと。   その発言に対して僕は「はえ〜そんなこともあるんすね〜」みたいなリアクションをとっていたが、コミュ力向上を目論む身としては、なにかコメントしたい。 ぼんやりしたリアクションでは、ハリのあるコミュニケーションをすることはできないだろう。何か意味のある、的を射た言葉を発せねば。 僕としては、コミュニケーション能力の高さを感じさせて、多少なりとも尊敬の目で見られたいという気持ちがあるんだよな。。 しょうもないけれども、これが自分の正直な気持ち。   そんなことを小むずくしく考えつつ、この発言に対するコメントをしようと頭を回すが、けっこう難しい。 なにせ、自分に似たような体験もなければ、自分ははっきり言ってこのひとの第二言語にほぼ全く興味がないからだ。。。   マツコデラックスならなんというだろう?有吉なら?紳助なら? そんなことを思いながら、次の言葉が全く出てこない状況に焦る。 ものの2~3秒の間が開けば、また違った話題が始まってしまうのだ。なんとしてもその前に一言発したい。   考えろ。今の発言を考察してみろ。 そんな思考になり、なぜタイ語の方が英語よりもパッと口をついて出てくるのか、考えてみた。 そして発した僕の言葉が、   『もしかしてタイ語と日本語って似てたりするんですかね〜?』   だった。   自分なりに点数をつけると30点/100点くらい。 頑張って考えた質問だけど、自分で見ても面白くもなく、相手からしても反応に困るであろう質問だ。。   しばし沈黙の後、コーチから帰ってきた言葉は   『・・・・・・・・・・いや、全然。』   だった。   それもそうだろう。全然似てなければ当然そう返ってくる。 そしてまともに会話も弾まず、その話題は終わった。   自分はコミュニケーションを小難しく考えすぎなんだよなーーーー ちょっといいことを言おうと頑張って空回ってんだよなーーー つまらない人と思われないように、馬鹿に見られないように、頭の回転が遅いって思われないように、必死で考えてるのに全然まともなこと言えてないんだよなーーーー   くぅぅぅぅぅぅ。悔しいというか、情けない。 まぁでも悔やんでも仕方ない。日々鍛えていこう。こうやって会話の練習の場があるということに、まずは感謝しよう。こういうもどかしい経験をちゃんと反省すれば、もっとうまくなれる。もう、ひたすら毎回反省会をやるだけだ。   というわけでここからはコーチの先ほどの発言にどう返したら良かったのかを考えていきたい。 コーチの発言内容を改めて載せると以下だ。   ボクシングジムの体験レッスンに行った時のコーチとの会話だ。 コーチはタイによく行っているようで、何回も行っているうちに、英語よりもタイ語の方が出てくるようになったという話をしていた。…

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困っている知人を救ってあげたいと思ってアドバイスしたら、救えないどころか嫌われた話

他人を自分の意図した方向に動かす力。これは特殊な能力である。 もっと正確にいうと、他人が自ら進んで動くように仕向ける力。   特殊な能力ではあるが、他人を動かすための方法論がいくつも世の中に出回っていることから、先天的な能力によるものというよりもある程度後から身につけられるものと推測できる。   今日僕は、知人をうまく動かすことができなかった。 その知人は、今月対応しないといけない仕事の量の膨大さに悩んでいた。 仕事が多すぎて、やり遂げられるか不安だとか、プライベートは疎かになるだろうとか考えている様子で、気が重そうだ。   以前も同じ発言をその知人から聞いていた僕は、苦しんでいるその知人をなんとかしてあげたくて必死にアドバイスをした。 コミュニケーションにおいて、聞かれてもいないアドバイスを繰り広げることは超絶嫌われるだけの悪手であることは百も承知だが、辛そうなその知人を見ることに耐えかねて、なんとか打開して欲しいという思いがまさってしまったのだ。   僕は心から相手のためを思って 『仕事を分解して、他の人に依頼できる作業は依頼した方が良い』 『仕事のどの部分に時間がかかっているのか、まずは分析しないと』 『前も同じことを言っていたから、真剣に対策を考えた方が良い。紙に書き出してみるべきだ。』 『時間に追われて仕事を楽しめていないようじゃ上には登れないんじゃないか』 『僕ならもっと上司に頼ったり、上層部に直接交渉するね』 などと、気づいたらアドバイスを超えた説教くさい言葉を放ちまくっていた。 改めて書き起こすとめちゃくちゃ嫌なやつだな。。   こんな言葉をかけてもその知人はいまいちピンとこないというか腑に落ちない様子で、気の抜けた返事をするだけであった。 もちろん全く僕の言葉は刺さっておらず、その知人の行動が変わって状況が改善される見込みもない。   そのとき僕はデールカーネギー著の『人を動かす』という超人気本の存在を思い出した。 人を動かすのは簡単なことじゃない。だからこそこの本がバカ売れするんだ。 『嫌われる勇気』が流行るのも、人に嫌われるのを恐れて身動きが取れなくなる人が多いから売れるわけで、人を動かせないことに悩む人も多いんだ。   僕は数年前にこの本を読んで目から鱗が落ちるような気分になった記憶があるが、書いてある内容はさっぱり覚えてない。 なんとなく、『褒めておだててあげれば人は動くんやで〜』っていう内容だった気もするが、そんな薄っぺらい内容であの分厚い本が書けてベストセラーになったら逆にすごい。   もう一回この本を振り返りたいなという気分になった。 ただ一回本を読むことにはものすごい時間を要する。 僕はサクッと振り返りたいのだ。   そこで、ChatGPTに聞いてみた。 『デールカーネギーの「人を動かす」という本の重要なポイントを整理して教えてください。』と聞いたら、以下の回答が返ってきた。 デール・カーネギーの「人を動かす」は、人間関係やコミュニケーションについての有名な自己啓発書です。以下に、その重要なポイントを整理して説明します。 相手の立場や感情を理解すること:カーネギーは、人々を動かすためには相手の立場や感情を理解することが重要だと述べています。他人の視点やニーズに目を向け、共感することで相手の信頼を得ることができます。 批判するよりも賞賛すること:カーネギーは、人々は自分自身に関心を持ってほしいという欲求を持っていると指摘しています。そのため、相手の良い点や成果を積極的に賞賛し、肯定的なフィードバックを与えることが重要です。人々は承認されたいという欲求を持っているため、賞賛は強力な動機付け要素となります。 批判を避け、適切な質問をすること:カーネギーは、批判や非難は人々を防御的にさせるだけでなく、関係を損なう可能性もあると指摘しています。代わりに、相手に対して適切な質問を投げかけることで、相手の意見や考えを引き出し、積極的な対話を促すことができます。 真摯な関心を持つこと:人々は自分自身や自分の関心事について話すことを好みます。相手に対して真摯な関心を持ち、共感や共感情を示すことで、相手との信頼関係を築くことができます。 優れたリーダーシップを発揮すること:カーネギーは、リーダーシップにおいては協力を奨励し、他者を尊重する姿勢が重要だと主張しています。人々を動かすためには、指示や命令よりも協力や共感を重視し、相手を尊重する態度を持つことが必要です。 これらのポイントは、「人を動かす」の中でカーネギーが強調している重要な要素です。相手との関係を改善し、コミュニケーションを円滑にするため   いやはやChatGPT先生は本当にすさまじい。ものの5秒で綺麗なまとめが返ってきた。念の為、他のブログなどを漁ってみて『人を動かす』の内容まとめと比べてみても、全く遜色にないどころか、こちらのほうがシンプルで要点がわかりやすい。   端的にいうと、誠実に他人に向き合えってことな気がする。相手に関心を持ち、相手の立場に立って、批判するのではなく理解してあげて、相手を尊重する。 これが人を動かす、言い換えたら、人に好かれて尊敬されてリーダーシップを発揮するための、黄金律なんだ。   これを忘れてはいけないな。 ぱっと見ると、そんなに難しいことじゃないように見えるし当たり前のことが書いてあるように見える。 でもこの当たり前を『日々実践する』となると、一気にハードルが上がる。 自分に余裕がない時や、視野が狭くなっている時など、このことを忘れて、ともすれば前述の僕の発言のような、相手を思いやれない、完全なエゴにより言葉を発してしまうことが往々にしてある。 そんなことをしていたら、すぐに他人を傷つけ、他人から愛想を尽かされ、孤独になり、罪悪感や自己嫌悪感に苛まれることになるだろうな。…

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「努力する人」よりも「楽しむ人」が成果を出すらしいけど、仕事なんて楽しくなくね?って話

今日以下のツイートを見た。 みやぞんの「実る努力」と「実らない努力」の話が本質すぎる pic.twitter.com/TVMyT8EQBe — びっとらべる (@bit_ravel) May 9, 2023   端的に内容を書くと 「同じ努力でも、苦しみに耐え抜いた努力は実らない。自分がハマっていて楽しくて苦痛に感じない、努力とも言えないような努力こそが、実るんだ。」 といった趣旨の内容である。   じつは、紀元前5世紀ごろに、同じ内容の言葉を、中国でもかの高名な孔子が語っている。 「天才は努力する者に勝てず、努力する者は楽しむ者に勝てない」 2000年以上前から言われているこの言葉が残り続けているのも、みんなうすうすそうおもってるからだろう。   こういう『好きこそ物の上手なれ』的な考え方は、時代を超えた真実と考えてもいいだろう。   それでもひとは、なぜかこの真理を見失いがちだと思う。 例えば 「苦しんだ先に栄光がある。」 「石に齧り付いてでも努力を続けるべきだ。」 「作業を楽しめているうちはまだまだ二流。」 みたいな、成功を求めるものには苦行が必要であるような趣旨の発言をチラホラ聞く。   これも、部分的には正しいと思う。苦しんで努力して、辛い日々を乗り越えて、自分との戦いに耐え抜いた上で成果を出す人はある程度いることは疑いようもない。   だけど、みやぞんや孔子の発言の趣旨は、苦しんで努力する人間よりも、楽しんでいる人間の方が『より一層』成功しやすくて、努力が実りやすい。そんなニュアンスなのだとおもう。 『より一層』というところがポイントですね。『比較的』といってもいいかもしれない。   大谷翔平が、前代未聞の野球星人になる上で、野球をやめたい気持ちを抑え込んで苦しみながら猛烈なトレーニングに耐えたような印象はない。 大谷翔平の発言からは根本的に野球がとにもかくにも大好きに見える。野球で成果を出すための努力を苦痛だと思ってるようには受け取れない。 もちろん彼の人生振り返れば嫌なこともあった可能性はあるが、圧倒的に野球好きなのは間違いないといっていいだろう。   そして、ほとんどのひとが、改めてこのように言われるまでもなく、自分が好きで仕方ないことに出会い、毎日それに打ち込んで幸せな時間を過ごしながら、圧倒的な成果や成功を手に入れたいと思うはずだ。 しかし改めて周りの人を見渡してみると、そこまで本気で打ち込めるようなことにも出会っておらず、ただ漫然と好きでも無い仕事を日々こなし、好きでも無い勉強をして、好きでも無い資格をとり、好きでも無い人と、好きでも無い会社で、人生の大半を過ごしている人が多いんじゃ無いだろうか。 多くの人が月曜日を憂鬱に感じ、やれ華金だ、GWだと舞い上がっているのが十分な証拠だろう。誰も口に出さないだけで、ほとんどのひとが「全然好きでもなんでもない仕事」を無理やりこなす人生を送っているといっていいだろう。   それはなぜか。真剣に向き合ってみたい。 なぜならぼくも他ならぬその一人だし、正直にいえば大して好きではないプログラミングに日々取り組んでいて、自分が思い描くような成果を十分に得られているわけでは無い。(まぁ比較的満足はいっているが、まだまだ十分じゃ無い)   好きなことに打ち込んで、楽しみながら人生大成功する、そんなことって可能なんだろうか。   まずそれを考える上で一つの思考実験をしてみたい。 『寝ること』が大好きな少女は、『寝ること』にひたすら取り組み続けて大成功できるだろうか。   ・・・・・・   考えるだけ時間がもったいないレベルの愚問ですね。毎日好きなだけ寝ていて成功できるわけない、といっていいでしょう。   では、『肉を食べること』が大好きな少年は毎日楽しく『肉を食べること』を続けて大成功できるだろうか。 これも、否ですね。  …

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「気分が落ち込んでいる時にしか巡り会えないもの」に気づいた話

イタリアから帰国後、数日にわたって時差ボケが続いたことで、まともに夜に寝れていませんでした。 そのせいで、日中ずっと眠いという状態が続いていました。 平時、私はリモートワークなので、ただでさえあまり家から出ないです。 それに加えて、日中のあまりの眠さから、全く外に出ない状態で家に篭り続ける数日間過ごしていました。 日光を浴びずに、まともに運動もせず、ろくな睡眠をとっていない日々が続いていたというわけです。   そんな暮らしをすると、人間どうなるか。端的に言えば、気持ちが病みます。思いっきり、病みます。 いままで、大して不安に思ってもなかったようなことが急に不安に感じたり、過去の自分の愚かな行いが思い出されて赤面していたたまれない気持ちになったり、生きている意味がわからなくなったり。 いろんな形で、自分の内外に潜む闇の部分が、襲いかかってきます。   そんなメンタル状態のときに、人はどんな行動を取るのでしょうか。 ある人は酒を飲み、ある人は知人に電話をし、ある人は思いっきり泣くことでしょう。 僕は、ひたすら本とインターネットに、今の自分を救ってくれる「知識」と「知恵」を求めました。 インターネットで「生きている意味 わからない」と検索窓に打てば、それっぽい答えがずらっと並びますし、病んでる人に向けた「頑張らなくていい」「ポジティブシンキングのすすめ」「孤独に耐えよ」的なメッセージを伝える本は山ほどあります。 そういったものをひたすら探し求め、読み耽っていました。 こういう時間が生産的なのかそうでないのか、僕には判断ができませんが、人生の中でたまにはそういう時間があると、平時には出会えない知識や知恵に出会い、新しい価値観や視点といったものが自分の中に芽生えるもので、こんな時間もあっていいのかなと思います。   そこで、僕は出会いました。アラサーになっても中身は思った以上に少年で、まだまだ脆くて弱い僕が、心に染みるいくつかの言葉に出会いました。そしてその言葉は同じ人物から発せられたものでした。 日頃、そんじょそこらの言葉では心が揺れ動かなくなってきたはずの僕が、顎にパンチをクリーンヒットされたようにぐらついた、いくつかの言葉。 僕の漠然とした不安をそっと和らげてくれる言葉。座右の銘というとなんか安っぽく聞こえる。僕の人生と心を支えてくれる言葉という方がしっくりくる。そんな言葉に出会えました。 正直、楽しい気分の時に出会っていても気にも留めなかった言葉かもしれないです。こういう「自分を強く支えてくれる言葉」って気分が落ち込んでいる時にしか巡り会えないんだと思います。   その方は、1909年2月3日に生まれ、1943年8月24日(享年34)に亡くなったフランスの哲学者、Simone Weil(シモーヌ・ヴェイユ)という方でした。   ↑シモーヌ・ヴェイユさん。   不安に苛まれている僕にとって救いになるような温かい言葉が非常に多く、励まされました。 僕の不安とは、具体的に、将来にわたってお金を稼ぎ続けられるかとか、自分にはなんの才能もなくこのままなにも”意味”を残さず死んでいくのか、とか、そういうものです。 そういうものに対する救いでした。救われた言葉がいくつかあるので以下に挙げていきます。   まず一つ目の言葉。 「天才とは、暗い闇夜を乗り越えていく力の異名のことです」   これは、万人受けする言葉かどうか、僕は知らないしあまり興味もない。 僕にはひたすらに刺さった。   僕はエンジニアとしての目標があります。 自分のアプリを開発して、人に使ってもらい、それで自分にも経済的な恩恵(つまり成功)がもたらされる状態になりたい、というものです。 会社に属したり、他の人の依頼を受けて開発をしたりするのではなく、自分のアプリやサービスで食べていきたい。そしてそれで世の中に自分の存在を知らしめて、自分の価値を証明したい。 そんな思いがあります。   でも、現実はそんなにあまくない。今時点で自分のアプリで毎月大学生のアルバイト代くらいは稼げているが、一生自分が食べていったり、旅行をしたり、人生を謳歌するだけの十分な金額ではない。 さらに、いまは本業とも言える受託開発(他人のシステム開発への従事)や英語学習やブログ記事執筆に日々時間を取られて、自分一人でのアプリ開発が自分の想像の十分の一くらいのスピードでしか進んでおらず、大いにフラストレーションが溜まっている。   そんな中でこの「天才とは、暗い闇夜を乗り越えていく力の異名のことです」の言葉はありがたかった。救われた。 まず、天才を、先天的なものとして語っていない部分に救いがある。「暗い闇夜を乗り越えていく力」を身につけることで、天才になれるということだと解釈しています。 そして「暗い闇夜」とは、いまのぼくのような、目指すべき目標に近づきたいのに近づけていないし、進んでる方向が正しいかもわからない、でも手探りで暗闇を進んでいる、そんな状態を指しているのかなと思っています。 その状態は誰しも辛いけど、それを乗り越える力こそが天才である、というこの言葉により、いまこの闇夜の状況に耐えている自分自身が肯定された気持ちになりました。 天才と言われる人は、皆この状況を乗り越えたんだな、となんとなくイメージが喚起され、励まされました。   二つ目の言葉は、 と思いましたが今日は疲れたのでこの辺りで終わろう。 読者の方がいたら、適当ですみません。これは自分の思考力を深めるための、ある意味わがままなブログなので許してください。  …