雑記

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MacBookProのOSを13.3(Ventura)にアップデートしたらUSBハブや外部モニタの接続がぶっ壊れた話

(記事末尾に追記あり)   今日Macがぶっこわれた。 MacBookProのOSを13.3(Ventura)にあげて、数日ほどパソコンを使っていたら(ポイント)、ある時を境にUSBハブ経由でのMacへの接続ができなくなるとともに、外部モニタへの直接のHDMI接続も不安定になった。 (先に言っておくと残念ながら解決には至っていないが、解決の糸口はあるので記載した。結果は後日気が向いたらupdateする。) 数日間問題なく動いていたのに突然ダメになるって、かなり困る。 特に闇サイト的なところにアクセスするなどの外部から攻撃を喰らってしまった心当たりもないのでなおさらやっかい。 具体的な症状としては、マウスやキーボード、充電ケーブル、外部モニタなどの外部のデバイスとの接続時に使う『USBハブ』といういろんな端子をまとめてぶっさせる、ハーモニカほどのサイズの機械を、Macが全く読み込んでくれなくなったのだ。 USBハブとは以下のような商品だ。 エンジニアという職業柄、プログラミングをするために、外部のでかいモニタはどうしても使いたかったので、接続するためのHDMIケーブルを直接Macに差し込んでみたが、それでも全然認識してくれない。 たまに認識してくれるかと思ったら、普段ならたくさん選べる解像度の設定値の種類がまともにでてこず、2つしかでてこなくて、僕の巨大外部モニタでは画面が横にびろーんって伸びて表示されるという目も当てられない様だ。 エンジニアとしてのプライドもあり、なんとか自力で解決しようと、ゴリゴリに調査していろんな問題の切り分けを行ったが、結局解決に至らず。   結局、Appleサポートセンターに問い合わせた。 Chat機能があり、まるでLINEで超詳しい友達に懇切丁寧に説明してもらっているような気分になり、なぜかすこしときめく。 大企業ならではの、素晴らしいサポート体制だ。 (一方で、こういう仕事はAIの得意分野だなぁ、いつか仕事が奪われていくんだなぁ、と無駄にうら悲しい気持ちになった。。)   そのチャットで、こちらも現在の状況や試したことを事細かに説明して、向こうからの質問にも認識ズレのないように慎重に回答したところ、OSを再インストールしてください。という指示が来た。 具体的には以下の2ステップ。 https://support.apple.com/ja-jp/HT201250 https://support.apple.com/ja-jp/HT204904   バックアップを取るHDDがないので、ヨドバシエクストリームで即注文し、明日届く。 Amazonだと2日かかるけど、ヨドバシは1日で届けてくれる。これがあるからヨドバシを(たまに)使うし、これこそ涙ぐましい企業努力、って言えるよな。そしてその企業努力もちゃんとこうしてある程度の成果を出しているわけで。 でもヨドバシをメインで使う気にはなれないな。なんか慣れなんだよね。慣れ親しんだAmazon。なんのストレスもなく、脳死でポチれるAmazon。そしていろんなものが買えるAmazon。ヨドバシは、どれだけ努力しても本命彼女にはしてもらえない女の子のような悲しい存在なのかな。資本主義ってシビア。   というわけで、まだ解決には至っていないけど、少し光明が見えてきて心が束の間の休息を迎えた。 古いOSで普通にできていたことが新しいOSでできなくなる時のストレスってすさまじいよね。時間と技術を投下して開発された時代の最先端のOSのはずなのに、超絶基本的なところで詰まってて、進歩してないどころか退化してるって、そりゃないよ。エンジニアの僕にとってMacは唯一無二の商売道具なのでなおさら。   ちっちゃなMacBookのモニタで頑張ってブログ書きました。 終わり。     (2023/5/11追記) Appleサポートの指示にしたがってOSの再インストールを行ったが結局ダメ。 が、ふいに、MacBookの左右の側面に合計3つある USB type C のポートのうち左の2つしか試していなかったことに気づき、右側のポートで試したら、なんとUSBハブ経由での諸々の外部デバイスの接続に成功し、外部モニタの解像度の問題なども解消された。 以前として左側のポートはまともに使えないが、とりあえず右側でなんとかなった。 もしかすると左側だけなんかしらの理由で故障したかもしれないので、修理屋に持っていこうと思います。 結果がわかれば後日UPDATEします。(気が向いたら。)   (2023/5/12追記) 修理屋に持っていったらどうやらハードが故障している可能性が高そうとのこと。 USBポート周りの基盤なのかなんなのか、とにかく中身の機械的・電子的な部分がぶっ壊れている可能性ありとのこと。 ソフトには問題なかった。 修理に数万と数週間が奪われるので、修理に出さず使っていこうかなと。   長い戦いでしたが、以上です。誰かの役に立てば。

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なぜ、文章を書くことを異常にきらっていた僕が、突然、毎日数千文字の文章を自発的に書くようになったのか?

これまで理系人間まっしぐらで生きてきて、いまもプログラミングで生計を立てている僕にとって、文章を書くことは非常に退屈な作業であった。 「退屈な作業であった」と過去形にしているのは、最近まったく「書くこと」への捉え方が変わってきたからだ。 いまや、書くと言う行為にある種の魅力を感じ、取り憑かれている。 夜な夜なパソコンに向かい、キーボードを叩くようになった。全く文章を書いていない日は歯磨きをしないまま寝るような気持ち悪さがあり、どうにも耐えられない。   なぜ、文章執筆を異常にきらう筆無精の僕が、突然、筆のとりこになり、毎日数千文字の文章をだれに指図されるでもなく書くようになったのか? 小学生時代から読書感想文が大嫌いで、適当に世の中に出回ったどこぞのだれかの読書感想文をコソコソと書き写してなんとかやり過ごしてきたこの僕が、なぜ? ピーマン嫌いの子供が、突然ピーマン大好きになるだろうか?   理由は明確で、人気YouTuberヒカルの「心配すんな。全部上手くいく。」という本を読み、自分に圧倒的に足りていない行為が「書くこと」だと悟ったからだ。 言い換えれば、いまの自分に足りていないコミュ力、思考力、カリスマ性、人間的魅力、といったものが、書くことによって手に入ると確信できたからだ。 この本の衝撃は以下の記事にも書いたので興味のある方はぜひ見てほしい。 人気YouTuberヒカルの「心配すんな。全部上手くいく。」を読んで衝撃が走った   この本を読み、「書くこと」への興味が異常に掻き立てられたので、数年間放置していてインターネット界のデブリと化していたこのブログに、ひたすら記事を書き始めた。 それとともに、もっと「書くこと」の効果を知りたくてたくさん「書くこと」に関する本を読んだ。 途中までしか読んでいないものもあるが、読んだ本を挙げると、 このあたりだ。どれも「書くこと」の魅力や、完全な素人がどうやって書いていけば効果的に書くことの恩恵を受けられるのか、また書くモチベーションをどのように維持するのかなどが書かれていて、非常にためになった。   そしてこれらを読む中で、「書くこと」についての重要な知見の多くが共通していることに気づいた。 その内容を以下に書き残す。 そもそも文章は、しっかり考えてから考えたことを書くのではなく、まず書きはじめることが非常に重要である。理由は、書くことがおっくうにならないようにするため。とにかく書き始めれば御の字と思ったら、自然と手が動く。書きながら考えを深めていけばいい。 誰に読ませるために文章を書くのではなく、自分のために書くべし。きれいな文章にしなくていい。だれかに読まれることを意識すると、よそゆきのお化粧した文章になって、全然だれにも刺さらない。心の声をそのまま書き出していけばいい。驚いた、とか書かずに「うわぁぁぁ」とか書いちゃえばいい。 文章を書くことで考える力が格段に伸びる。考える力が伸びると、当然会話する力も伸びる。話題にも困らなくなる。 文章を書く習慣がつくと、文章を書くネタを探すために、世の中をよく観察するようになる。そうなると観察力が高まる。よく観察して、考察して、文章に起こしていくことで、他の人にはない独自の視点が育まれる。 これらは、複数の本を読んだ上で、僕の独断と偏見で抽出した重要なポイントだ。   いまにして思えば、過去の偉人だって文章を書いてた。偉人というかカリスマと言われる人々だ。カリスマが、言葉を巧みに操れないなんて、考えられないだろう。 周りの人から「このひとなにいってるの?」「この人の考え浅いな〜」とか思われているカリスマなんていないでしょう。   例えばユリウス=カエサルはガリア戦記を書いたし、ヒトラーは我が闘争を書いた。 キリストやブッダ、孔子あたりは、文章を書いたというより弟子が聖書なり論語なりを書き起こした様子だが、まぁ誰が書き起こしたにしろ、書いたと同等の作業をしているといっていいと思う。(ここでは口述筆記をイメージしているが実際は違うかも。まぁ言葉が巧みだったことは間違いないでしょう。) 現代でも、マツコデラックスはコラムニストだし、ヒカルや与沢翼などの魅力的な言葉を発する人は情報商材を売るための文章をセコセコ書いていたわけで。(ぼったくり商材を肯定する意図はない)   つまり、カリスマというか、他人を惹きつけるため人間になるために、言葉の力が不可欠で、そのために「書く作業」が最適なんだと結論づけていいと思う。 もちろん、書くことをしていなくても、自然に身につけた人間的魅力や圧倒的な実績(大谷翔平的な)によって他人を魅了することができる選ばれし人間もいる。 一方で、選ばれし人間ではない、と薄々勘付いている人は、別に肩を落とす必要もなく、ひたすら書く習慣をつけていけば良いのだ。 僕は30代になってようやく自分のカリスマ性の無さ、言語化能力の弱さ、対人スキルの低さに気づいて、割とうちひしがれていたので、この事実に気づかされてすごく気分が明るくなった。   日頃なんとなく会話しているだけでは決して到達できない言語能力の高みに至れるんだよ。やるしかないでしょ。 言語能力の高みに至れば、どう考えても、仕事、恋愛、人付き合いにおいて有利だし、自己肯定感もマックスまで上がるし、なによりいろんな人と臆さずに関われるようになって最高に人生が花開くはず。   ましてや、フルリモートで働ける時代。 人との関わりも薄くますますコミュニケーション能力が自然には上がっていかないので、なおさら書く習慣をつけるといいとおもう。   完。

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英語学習を本格的に開始

イタリア旅行に行って痛烈に感じたことに「英語をもっと話せたら人生超楽しいだろうな」っていうものがある。 英語を話せるということは、自分の生きる世界が日本だけに閉じてしまわないということだ。 そもそも日本は、料理もおいしくて、街も綺麗で、治安も良く、物価もそこまで高くないという、大変に住みやすい素晴らしい国である。 日本で生まれて普通に暮らしているだけでも、十分に幸せなことだろう。   しかしながら、海外に出ると、日本にない魅力を感じることが多々ある。 人の明るさだったり、仕事や対人関係の良い意味での適当さだったり、単純に気候がよかったり。そういったものに思う存分に触れて、いろんな国のいいとこ取りをしていくことは楽しく幸せに生きる上で欠かせないんじゃないか。 そのためには英語がもちろん不可欠である。 また、日本という国でしか生きられない状態だと、リスクがある。ずっと日本で暮らしていると気づきづらいが、経済力も落ち、人口も減りつつあるこの衰退国家日本でいつまでこの快適な暮らしができるのか、保証なんてない。 いつでも脱出できる状態にしておくことは心の余裕につながるだろう。   ただ、英語学習はなかなか骨が折れる。単語力、文法などの覚えることが多々ある上に、異常に膨大な量の英語に触れて慣れていかないといけない。時間と精神力を大変に要する作業。 それに、中学校、高校の6年間は少なくとも英語に触れてきたのにめっきり会話ができないなんて珍しくなく、それを大人になって仕事等に忙殺される日々の合間を縫ってマスターすることなんて本当にできるのか、という疑いの気持ちを抱いてしまい、モチベーションもなかなか上がらない。 数多くの人が、英語を学ぼうと取り組み始めては数週間も学習が持続せずに頓挫しているんではないか。 英語学習は、ある意味で禁酒や禁煙とかと一緒だとおもう。相当な根気と自分に打ち勝つ強さとモチベーションの維持が求められる。 しかしその困難を乗り越えたら、得られるものは大きい。海外の人と関わることで自分の世界が広がり、凡人レベルを逸した英会話スキルを持つことで周りからの尊敬も集められ、困難に打ち勝ったんだという自信にもつながる。   で、英語に限らずなににおいても、スキルを習得するときには、闇雲にトレーニングを始めるのではなく、最適な方法を選び抜いて最短ルートを駆け抜けることが必須だと思う。 人生でやりたいことがたくさんある中で無駄な学習に時間を割いている時間はない。 効果的な学習方法についてはDJ社長の以下の動画がめっちゃ参考になるのでぜひ見てほしい。DJ社長はいろんな動画を見たが、頭がいいと言うか要領が異常にいいことがわかっているので、この動画も信用していいとおもう。   この動画を見ても、義務教育で強制的に受けさせられた学習方法とは全く異なってる。 我々大半の日本人は、義務教育を経ても英会話ができない現状を直視して、義務教育とは全く別の学習アプローチをする必要があるのは当然のことだと思うのだが、それを確立してくれているのが上記の動画。 あとは、根気強くどれだけ続けられるか。 そのために、英語圏にたまに旅行に行ってみるとかもありだと思うし、国内のバックパッカー向けホステルみたいなところに出向いてそこにいる来日中の外国人と会話してみるとか、あの手この手でモチベーションを保っていこう。   これからしばらく、自分の納得いくレベルになるまで、ひたすら英語に打ち込んでいこうと思う。

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イタリア旅行の総括

どうも、みりおです。 4/27〜5/4までイタリア旅行に行っていたので、このブログに所感を残します。旅程を日記のように記すような退屈なことはしません。それは他でやってます。 どちらかというとマジで心動いた瞬間や、思考がぐらついた瞬間、僕の人生に何か影響を与えた瞬間を切り取って記します。 この記述は、誰に見せるつもりもなく、勝手に見てくれる分にはいいが、メインの目的を「僕の思考力向上」としているので、独特の文章になるかもしれない。それだけご留意いただきたい。   海外に行くと、アジア人は、「あれ、自分、塩対応されてないか?」「なんかうっすら嫌われてないか?」「かすかに相手からの見下した雰囲気を感じる」といったような、大袈裟に言うならちょっとした差別的な扱いを受けるシーンがある場合がある。 これは僕の旅行体験によると、アジア人自身の性質にいくぶんの原因がある。 理由は、英語がまともに話せない、外見がしょぼい(自分で改善できる部分の話。どうしようもない部分は、当然どうしようもない。例えば体格がひょろがりだったりファッションがクソダサなど)、礼儀が欧米式でない、という3点がある。 もう説明するまでもないが、これらの性質を備えた人間は、アジア人だろうと、何人だろうと、好かれないし、温かく受け入れられないのは当然のことだとおもう。 仮に、同じ日本人を想像してみたときに、言語能力不足のためにまともに会話が成り立たない相手だったり、あまりにもみすぼらしい外見をしていたり、礼儀がなってない人間に、親切にフレンドリーに関わるだろうか。 僕は、申し訳ないけど、聖人君子ではないので、そんな人間に多少なりとも嫌悪感を抱く。 言葉を選ばずに言えば、僕はそんな人間を見ると「なんだこいつ、、、きもっ、、」とまず第一に思うのだ。 これを差別的、と呼んでくれても、冷たい人間だ、と罵ってくれても良い。本心だから。うそはつけない。世の中にこの考えをオープンにしても叩かれるだけであることを僕は知っているけども、自分に嘘をつけないし、この記事に嘘をかくつもりもない。(本音を解像度高く言語化することが、ブログを書く目的だから)   結論、海外でいろんな人と親しくなって、いろんな価値観を学び、文化を知り、自分を成長させたければ、まず英語を極めて、体つきや服装をだれがみても恥ずかしくないレベルに高めて、欧米文化の礼儀やマナーを知ることだ。 これからの時代、英会話はAIによって実現され人間が頑張る必要もない、と言う意見もわかるが、そう言われ続けて数十年経つのにまだ完全には実現していない状況にすがりつづけるのか?甘いよね。自力で掴み取れよ。 そもそもが英語なんてそんなに難しくない。日本のクソ教育システム制度のせいで最低限の読み書きしかできない日本人が大量生産されているが、まず会話を学ばないと。聞いて、話す。それを最優先にしよう。そのためには特別な訓練が必要だ。日本の教育じゃ賄いきれない。考えて、調べて、会話するコミュニケーションを積まないと。   海外で受け入れられる人間になることによって、人生の可能性は、本当に大きく開ける。 日本で仕事が見つからなくたって、英語圏で見つければいいじゃない。日本で友達や恋人が見つからなくたって、海外で探せばいいじゃない。日本に飽きたり、日本の政治に不満があれば、海外で暮らせばいいじゃない。   こんな偉そうに語る僕も、まだまだ海外に本当の意味で通用する人間ではないから、自己研鑽が必要ではあるけれども、日本で鬱屈とした日々を過ごすひとはここに活路を見いだすしかない。 というかそっちのほうが、日本という狭い世界でうまいこと生きている人よりも、広い世界で自分の居場所を見つけられるので断然幸せに生きられる。   正直な話を言えば、この「差別はよくないよ!」的な、ポリティカルコレクトネス賛美の時代においても、無意識レベルのアジア人差別はなかなか無くならないと思う。 でも。でも。 だからなに?向こうが勝手に見下してるだけでしょう。こちらが海外に通用する人材になり、「差別をされる理由などない」ことを海外の一般レベルの凡人に対して明確に主張できる自信があれば、気にせずに堂々と楽しく生きていける。 要は、英語を聞き取れず半笑いでニヤニヤしていたり、眉毛を剃り込んでプリントパーカーを着込んだダサいファッションをしていたり、犬食いマンとかクチャラーだったり、そういうところを最低限直して、馬鹿にされる要素を丁寧に取り除けば、差別されることなんてまずないし、無意識に差別してくる悪魔くんたちには正々堂々議論をするつもりで生きれば何恐れることはない。   強く生きていこう。日本人は優秀で強い。海外のいけすかねぇやつらに見せつけていこう。 今日はこれで終わり。

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自由になる前に、やりたいことをみつけておけ、という話

雑記を書き始めて、2日目。旅行で滞在中のイタリアのフィレンツェから「僕自身が思考力を強化するための雑記ブログ」を投下したい。読者を想定していない、極めてエゴイスティックなブログである。 さて、現在僕は経営者という仕事をしている。とはいっても社員は僕一人の小さな会社である。そのため比較的自由にお金や時間を使うことが可能である。 そのような背景もあり、せっかくの時間的・経済的ゆとりを活用して、今年(2023年)のどこかで1ヶ月ほど海外に出たいと考えている。(いまもイタリア滞在中だが、今年もう一回行きたい) そこで迷うのが、どこにいってなにをするかだ。 僕がこれまでの人生でよく聞いた言葉に「自由すぎるとなにをしたらよいかわからなくなる」というものがある。 これをきいたとき、正直鼻で笑った。そんなわけがあるか。自由、すなわちなにをしてもよい、そんな状態になれば迷いなく好きなことに好きなだけ取り組んでその瞬間を謳歌するのみだろう。自由なのに、何もできないなんてそんな愚かなことがあろうか。仮に人間の傾向としてそんな性質があったとしても、僕はそうじゃない。そう信じていた。 しかし実際問題、ある程度時間的・経済的に自由になると、本当に困る。これは完全な自由ではない、というのがミソかもしれない。自由にお金や時間をつかって動き回ることはできそうであっても、ファーストクラスが無限回使えるわけでもなく、5000年間遊び呆けられるわけでもなく、体力が無尽蔵に湧いてくるわけでもない。結局どんな自由も制限付きなんだよね。言葉の定義の問題だけど、寿命や体力に限りがある以上、完全な自由って起こり得ない。 つまり、「自由」という言葉の意味からこっそり削ぎ落とされた「見えづらい制限」の部分が地味にネックなのだ。 お金や時間にぼんやりした「見えづらい制約」がある中で、ある程度の自由を謳歌しようと思うと、無数にあるやりたいことリストの中から制限に合わせて優先度をつけて、「本当の本当にやりたいこと」を選定していかないといけなくなる。 この「本当の本当にやりたいこと」ってのが案外決められない。楽しさを取るのか、自己成長をとるのか、さまざまなファクターが絡んでくるので、やりたいやりたくないの一元的に決めることができない。 例えば今回の僕のケースだと、資金面、時間面で、アメリカにも東南アジアにも両方行くことはできないので、どちらかを選ばないといけないが、その判断を行うにあたって、自分が何をやりたいかを明確にしないといけない。それはじっくり前もって考えてないと本当に難しい。 自由な状態になっても決められないのだから、仕事などに忙殺される日々で、本当にやりたいことを見出して取り組むことってもうほぼ無理なんじゃないかと思う。 そういう事情を踏まえると、お金や時間の自由を手に入れられるかどうかに関わらず、日頃から自分の「本当にやりたいこと」を明確にしておいて、そのためにどうすればよいか情報を集める作業を繰り返しておかないと、充実した一生が送れないような気がしている。 端的にまとめると、 急に自由になっても、やりたいことって案外決められない。 自由になってすら、やりたいことがわからないのだから、自由になっていない状態でわかるはずもなく、やりたいことができるはずもない。 自分が何をやりたいか、自分がどんな人間になりたいか、そしてそのためにどうすれば良いかを、常々考える必要がありそう。   僕の文章ってなんか、暑苦しいよね。 自覚はしている。 もっと、爽やかなそよ風みたいな文章をかきたい。もちろん、説得力付きの。 では。

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人気YouTuberヒカルの「心配すんな。全部上手くいく。」を読んで衝撃が走った

現在2023/5/1。32歳の僕は、旅行でイタリアのフィレンツェに来ています。 日本から仁川を経由してイタリアに来たわけですが、その移動時間、なんと13時間。 13時間もあると、寝たり映画を見たり色々できますが、僕は読書を選びました。 というのも、若者と呼べる時期を過ぎた自分が、最近あまりにも人生に迷い、納得のいかない日々を送っているので、少しでもヒントを得たく、日々本を貪るように読んでいるからです。 選んだ本は、人気youtuberヒカルの「心配すんな。全部上手くいく。」という本。 結論から言うと、今の自分の迷い、憂い、嘆き、苦悶といったものが思った以上に吹っ飛んでいきました。 この本を手に取るまで、ヒカルの動画を何度か見たことがありましたが、トーク力や圧倒的な自信、そしてそれらからくるカリスマ性になんとなく凄さを感じていたものの、年下であり、なんとなくチャラチャラした感じを受けており、まともにリスペクトすることを無意識のうちに拒んでいました。 実は多くの社会人男性も同じような印象を抱いているのでは、と思ってます。 ヒカルの凄さになんとなく憧れを感じるものの、その自分の感情を認めたくない。こんなお調子者を評価したくない。 正直なところそんな気分じゃないかと思ってます。 ましてや男友達や会社の同僚にヒカルを尊敬しているなんて口が裂けても言えない。 しかし、この本を読んで僕は完全にヒカルの実力を認めることになり、さらにはヒカルのアドバイスにしたがってしばらく生きてみようと決意するに至りました。 その理由は端的にいうと、この本を読んだことで「圧倒的なトーク力を手にして人生を思うままに謳歌したい」という自分の欲求にまず気付かされた上に、ヒカルの考え方やアドバイスが鋭く、自分も本気で頑張ってみようとモチベを刺激されたからです。 明確な目標ができると、モヤッとした気分が晴れるんですね。この本で、僕の当面の目標とやるべきことが明らかになったので、本当に読んでよかったです。 仕事も恋愛もご近所付き合いも、トーク力がずば抜けていれば結果が出せるだけでなく、トークや人付き合いそのものが超絶楽しくなると思っています。自分の考えを、寸分のずれなく、流暢に言語化し、他人に納得してもらい、共感してもらう。こんな楽しいことってあるだろうか。こんなに自己肯定感の上がる体験ってあるだろうか。 学生時代のように、雰囲気でなんとなくこなしてきた会話が、社会人になるにつれて全然通用しなくなり、いつも「まともな発言」「TPOに適した発言」が求められるようになります。すると、発言する前にいろんなことを気にしないといけなくなって、人と付き合うことがだんだん苦痛になってきませんか。 僕はまさにそうで、自分の思うままにトークを繰り広げて、人を魅了できたら、そんな楽しいことはないよなと思ってます。 僕がこういった日記というかエッセイというか、文章を書き始めようと思ったきっかけも、完全にこの本の影響によるものです。 この本には「文章を書くことによって自分の考える力を深めて、できるだけ多くの事象に対して自分なりの答えを持つことが話術の最大の秘訣である」という旨のことが書かれており、文章を書く習慣を身に付けることで圧倒的なトーク力の習得につながると確信しています。 今回は、自分で読むのも恥ずかしいほどに読みづらく散漫とした文章ではあるが、これを1ヶ月、半年、1年と続けているうちに向上していくことは間違いない。そしてその向上がダイレクトに「考える力」「表現する力」の向上に直結し、トーク力が磨かれていくことを確信している。 思えば、与沢翼さんも、人を惹きつけるトークをする。ヒカルと少し似た部分があるように思う。ふたりとも情報商材を売るために、文章をたくさん書き、文章を商売道具にしていた人間である。 人を惹きつけるトーク力があれば怖いものがないのではないか。 人を惹きつけるトーク力は飛び抜けたイケメンに生まれたわけでも、大富豪に生まれたわけでもない凡人が、人生を最大限充実させるための、数少ないスキルだとおもう。 ヒカルはどうやら1日4000文字の文章を書くことをノルマとして自分に課していたらしいので、僕もそれに匹敵するくらい、文章を書いて日々思考を深めていきたいと思う。 毎日適当に面白そうなテーマを決めて、自分の答え(意見)はこれだ、と言い切れるところまで思考を深めたいと思う。 しかも当たり障りのない思考だけでは面白くないので、独自の視点やユーモアもふんだんに取り入れていきたいところ。 いまは人に見せるのも恥ずかしいこの文章だけど、あえて晒して、自分を追い込んでいきたい。 どうせ書いている主体はブログやSNSで本名も出してない架空のアカウントである。 ただのトレーニングの場として、ガンガン書いていこう。     で、早速気づいたけど、やはり僕の文章はつまらない。話が展開していかない。ただ一点のテーマをある程度なんとなく深掘りしている風で、同じ話を延々としているだけ。 このあたり、これから改善していこう。 では。