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書くことを通して得られるものとはなにか? -『書ける人だけが手にするもの(齋藤孝 著)』を読んで-

先日齋藤孝さんの『書ける人だけが手にするもの』を読了した。 ものを書き続けた人が最終的にどんなものを手に入れるのか、という主題の本である。 書くことによる大きなメリットを期待して日々ブログ更新に勤しむ僕にぴったりの本であった。 個人的に面白かった、勉強になった部分を抜粋したい。   ではさっそく始めていく。 一つ目。 自分が何を考えているのか、何を感じているのか、おそらく最初から完全に把握している人などひとりもいません。かといって、頭の中で考えているばかりでは、考えがぼやけてしまったり、堂々めぐりになったりして、思考を深めていくことは難しいでしょう。文章を書くというのは、自分の内側にあるものを文章という目に見えるかたちにアウトプットするというプロセスです。このプロセスそのものが、実は思考を深める行為でもあるのです。 齋藤 孝. 書ける人だけが手にするもの (Japanese Edition) (Kindle の位置No.185-189). Kindle 版. ここまで明快に言語化してくれてありがたい気持ちになった。 僕を含め、コミュニケーションが苦手な人、自己表現が苦手な人、プレゼンやスピーチが苦手な人はこの部分を肝に銘じたい。 そもそもひとは、結局自分が考えていることや感じていることを “把握” できていないのだ。この主張を読み、僕は背筋が伸びる気持ちになった。 それとともにブログを書き続けていることが自分にとって非常に有用であるという、自分の判断が誤っていないことを確信した。   ひとは自分の感情や思考を把握できていないから、会話で気持ちをうまく話せないし、急に意見を求められても言葉に詰まるのだ。 当然だ。視力0.1の人間に遠くの道路標識を読み上げろと言っているようなもので、何も見えていないから、当然言葉にできない。 普通にしていたら、会話やスピーチに困るのが当たり前なのね。   みんな頭で考えて、考えたつもりになっている。 でも、難しい数学の問題を解くときに頭の中で解けるわけがないのと同じで、書かないと考えなんてロクにできないということだ。 だから、日頃書いている人間と、書いていない人間の間には、雲泥の差ができる。少し喋ればわかるレベルで、明確な差ができるわけだ。   では2つめ。 文章を書こうというとき、たいていは、「なんだか、これについて考えようとするとモヤモヤする」「モヤモヤするから考えてみたい」というところから始まります。 齋藤 孝. 書ける人だけが手にするもの (Japanese Edition) (Kindle の位置No.327-328). Kindle 版.   毎日生きていれば、言葉に詰まるシーンや、思考が整理できないシーン、自分の感情の説明ができないシーンなど、たくさんのもやっとする場面に出くわすだろう。 それを言語化していくところから始めるのが良いとのことだ。 もやもやするということは、脳内だけでうまく思考が深められなかったとも言えるので、そういうことこそ書いて整理しつつ思考のトレーニングを積み重ねていくべき。     では次。 最初に問いを立てれば、それがフックとなって、さまざまな思考や情報を引っかけはじめます。こうして文章の材料が揃い、構成の見通しが立っていくわけです。 齋藤 孝. 書ける人だけが手にするもの (Japanese…

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無名で凡人な人がブログを読んでもらうためにすべきことは?

会話力や思考力をつけるために最近はブログを投下しまくっている。 だが、ただ自分の思考を掘り下げるだけでは、ただ惰性で文章を書いていてもよく、効果が薄いように感じ始めた。 もっとヒリヒリした、緊張感ある環境でトレーニングしないと、コミュ力界の大谷翔平はうまれない。 パワプロでいう、タッグトレーニングのような、経験値倍増の練習手法をなんとか見つけたい。   ただ自己満日記を書いているだけでは、文章の質や思考の質にこだわりが持てない。 なぜなら、メチャクチャな文章を書いても恥ずかしくもないし評判が落ちることもなく、失うものがないから。   もっとプレッシャーを浴びながら書きたいんですよ。。   ただそこで大問題がたちはだかる。   『だれも無名の凡人の文章なんてよまない』問題だ。     これがきびしい!実に厳しい!読まれたいのに、誰も読んでくれやしない。 はてぶとかならまだましかもしれないが、実はこのブログのドメインパワーを鍛えて自分の資産にしたい下心もうっすらあるので、このブログで続けたいんだよね。   なんて中途半端な、エゴイスティックな野郎だ!と思われるかもしれないが、あえてこの無名の個人ブログを鍛えていきたいんですよ。資産的な意味でも、やりがい的な意味でも。 かつて弱小だった楽天イーグルスを育てて優勝させた星野仙一監督の気分を味わいたいんですよ。     話を戻すと、文章力や思考力を高めるには、もっと人目にさらされた環境で人に読ませる文章を書く必要があるが、弱小個人ブログしか持たない僕の文章なんて誰も読まないと言う課題があるわけだ。 ブログを書くたびにツイートしているものの、悲しいくらいに記事リンクをクリックしてもらえない。   この対策としていくつか考えはある。 ・Twitterのフォロワー数を伸ばして記事ツイートをとにかく人目に晒してアクセスを増やす ・SEO対策をちょいちょいいれていく ・人気のあるブロガーを何人も分析する などなど。   Twitterのフォロワーを伸ばすのは、本当に気合を入れないとかなり難しい。 自分の軸をぶらさずに発信し続けないといけない。例えばエンジニアとして界隈で知名度のあるキャラを作っていくのであれば、エンジニアリング関連以外のツイートは避けるべきだし、『今日うちのかわいい犬をドッグランに連れていきました』なんて可愛いツイートをするなんて言語道断。。。らしい。どこかで読んだ。 しかもコンスタントに毎日何個もツイートをし続ける必要があるようで。 そんな、仕事みたいになっちゃうと、つまんないよね。書くと言う行為は楽しくないと続かない。僕にはTwitter運用はなかなか難しそう。(諦めないけど・・!)   SEOを伸ばす路線も、Google様が世の中に解き放っているBot様に気に入られるような構成にして、検索キーワードを無理やり文章中に散りばめまくって、、とかしてたら死ぬほど文章を書くことがつまらなくなるので、却下したい。 記事を読んでもらうのも大事だが、僕にとって『文章を書き続けること』が最も重要な目標なのだ。 楽しくなくては絶対に続かないので本末転倒であり言語道断。 文章を書くことが、息をするように当たり前になってきたら、余力でSEO対策を考えてもいいかもしれないが、いまじゃない。   最後の人気のあるブロガー分析は、いいかも! 例えば文体や自身の売り出し方などめちゃくちゃ学びが多そう。 しかも手っ取り早く取り組めるし、自分が興味のある内容だからまず楽しいのは間違いない。 もし仮に自分を散々にこき下ろす文章を赤の他人にされたらいやだが、冷静に分析して賞賛する分には問題ないでしょ。 次はこの辺りをやってみよう。   いつも僕をうっとりさせる文章を書くのは、 ・やまもとりゅうけんさん ・ずんずんのずんずんいこうさん あたりだ。   後日、詳しく分析してみようと思う。   では。…

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コミュ力不足に悩む毎日を脱したくて『失敗した会話』について考察してみた

日頃から僕は、コミュ力を磨きたいと強く思っている。 そのためには書くことが必要だと確信しているのでこのブログを書いていたりそれなりの努力はしているつもりだ。 ただリモートワークで働いていることもあり、直接他人と話す機会はとにかく少ない。実践練習が足りていないのだ。 そのためいざ他人とのリアルの会話シーンに直面するとまだまだ自分のコミュ力が足りてないことを痛感させられて、悔しいと共にいい刺激になる。   今日もコミュ力不足を実感した。   ボクシングジムの体験レッスンに行った時のコーチとの会話だ。 コーチはタイによく行っているようで、何回も行っているうちに、英語よりもタイ語の方が出てくるようになったという話をしていた。 つまり、日本語の次の第二言語がタイ語になってしまい、英語で話している時もタイ語で考えるシーンがあったり、ぽろっとタイ語が出るようなことがあるとのこと。   その発言に対して僕は「はえ〜そんなこともあるんすね〜」みたいなリアクションをとっていたが、コミュ力向上を目論む身としては、なにかコメントしたい。 ぼんやりしたリアクションでは、ハリのあるコミュニケーションをすることはできないだろう。何か意味のある、的を射た言葉を発せねば。 僕としては、コミュニケーション能力の高さを感じさせて、多少なりとも尊敬の目で見られたいという気持ちがあるんだよな。。 しょうもないけれども、これが自分の正直な気持ち。   そんなことを小むずくしく考えつつ、この発言に対するコメントをしようと頭を回すが、けっこう難しい。 なにせ、自分に似たような体験もなければ、自分ははっきり言ってこのひとの第二言語にほぼ全く興味がないからだ。。。   マツコデラックスならなんというだろう?有吉なら?紳助なら? そんなことを思いながら、次の言葉が全く出てこない状況に焦る。 ものの2~3秒の間が開けば、また違った話題が始まってしまうのだ。なんとしてもその前に一言発したい。   考えろ。今の発言を考察してみろ。 そんな思考になり、なぜタイ語の方が英語よりもパッと口をついて出てくるのか、考えてみた。 そして発した僕の言葉が、   『もしかしてタイ語と日本語って似てたりするんですかね〜?』   だった。   自分なりに点数をつけると30点/100点くらい。 頑張って考えた質問だけど、自分で見ても面白くもなく、相手からしても反応に困るであろう質問だ。。   しばし沈黙の後、コーチから帰ってきた言葉は   『・・・・・・・・・・いや、全然。』   だった。   それもそうだろう。全然似てなければ当然そう返ってくる。 そしてまともに会話も弾まず、その話題は終わった。   自分はコミュニケーションを小難しく考えすぎなんだよなーーーー ちょっといいことを言おうと頑張って空回ってんだよなーーー つまらない人と思われないように、馬鹿に見られないように、頭の回転が遅いって思われないように、必死で考えてるのに全然まともなこと言えてないんだよなーーーー   くぅぅぅぅぅぅ。悔しいというか、情けない。 まぁでも悔やんでも仕方ない。日々鍛えていこう。こうやって会話の練習の場があるということに、まずは感謝しよう。こういうもどかしい経験をちゃんと反省すれば、もっとうまくなれる。もう、ひたすら毎回反省会をやるだけだ。   というわけでここからはコーチの先ほどの発言にどう返したら良かったのかを考えていきたい。 コーチの発言内容を改めて載せると以下だ。   ボクシングジムの体験レッスンに行った時のコーチとの会話だ。 コーチはタイによく行っているようで、何回も行っているうちに、英語よりもタイ語の方が出てくるようになったという話をしていた。…

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困っている知人を救ってあげたいと思ってアドバイスしたら、救えないどころか嫌われた話

他人を自分の意図した方向に動かす力。これは特殊な能力である。 もっと正確にいうと、他人が自ら進んで動くように仕向ける力。   特殊な能力ではあるが、他人を動かすための方法論がいくつも世の中に出回っていることから、先天的な能力によるものというよりもある程度後から身につけられるものと推測できる。   今日僕は、知人をうまく動かすことができなかった。 その知人は、今月対応しないといけない仕事の量の膨大さに悩んでいた。 仕事が多すぎて、やり遂げられるか不安だとか、プライベートは疎かになるだろうとか考えている様子で、気が重そうだ。   以前も同じ発言をその知人から聞いていた僕は、苦しんでいるその知人をなんとかしてあげたくて必死にアドバイスをした。 コミュニケーションにおいて、聞かれてもいないアドバイスを繰り広げることは超絶嫌われるだけの悪手であることは百も承知だが、辛そうなその知人を見ることに耐えかねて、なんとか打開して欲しいという思いがまさってしまったのだ。   僕は心から相手のためを思って 『仕事を分解して、他の人に依頼できる作業は依頼した方が良い』 『仕事のどの部分に時間がかかっているのか、まずは分析しないと』 『前も同じことを言っていたから、真剣に対策を考えた方が良い。紙に書き出してみるべきだ。』 『時間に追われて仕事を楽しめていないようじゃ上には登れないんじゃないか』 『僕ならもっと上司に頼ったり、上層部に直接交渉するね』 などと、気づいたらアドバイスを超えた説教くさい言葉を放ちまくっていた。 改めて書き起こすとめちゃくちゃ嫌なやつだな。。   こんな言葉をかけてもその知人はいまいちピンとこないというか腑に落ちない様子で、気の抜けた返事をするだけであった。 もちろん全く僕の言葉は刺さっておらず、その知人の行動が変わって状況が改善される見込みもない。   そのとき僕はデールカーネギー著の『人を動かす』という超人気本の存在を思い出した。 人を動かすのは簡単なことじゃない。だからこそこの本がバカ売れするんだ。 『嫌われる勇気』が流行るのも、人に嫌われるのを恐れて身動きが取れなくなる人が多いから売れるわけで、人を動かせないことに悩む人も多いんだ。   僕は数年前にこの本を読んで目から鱗が落ちるような気分になった記憶があるが、書いてある内容はさっぱり覚えてない。 なんとなく、『褒めておだててあげれば人は動くんやで〜』っていう内容だった気もするが、そんな薄っぺらい内容であの分厚い本が書けてベストセラーになったら逆にすごい。   もう一回この本を振り返りたいなという気分になった。 ただ一回本を読むことにはものすごい時間を要する。 僕はサクッと振り返りたいのだ。   そこで、ChatGPTに聞いてみた。 『デールカーネギーの「人を動かす」という本の重要なポイントを整理して教えてください。』と聞いたら、以下の回答が返ってきた。 デール・カーネギーの「人を動かす」は、人間関係やコミュニケーションについての有名な自己啓発書です。以下に、その重要なポイントを整理して説明します。 相手の立場や感情を理解すること:カーネギーは、人々を動かすためには相手の立場や感情を理解することが重要だと述べています。他人の視点やニーズに目を向け、共感することで相手の信頼を得ることができます。 批判するよりも賞賛すること:カーネギーは、人々は自分自身に関心を持ってほしいという欲求を持っていると指摘しています。そのため、相手の良い点や成果を積極的に賞賛し、肯定的なフィードバックを与えることが重要です。人々は承認されたいという欲求を持っているため、賞賛は強力な動機付け要素となります。 批判を避け、適切な質問をすること:カーネギーは、批判や非難は人々を防御的にさせるだけでなく、関係を損なう可能性もあると指摘しています。代わりに、相手に対して適切な質問を投げかけることで、相手の意見や考えを引き出し、積極的な対話を促すことができます。 真摯な関心を持つこと:人々は自分自身や自分の関心事について話すことを好みます。相手に対して真摯な関心を持ち、共感や共感情を示すことで、相手との信頼関係を築くことができます。 優れたリーダーシップを発揮すること:カーネギーは、リーダーシップにおいては協力を奨励し、他者を尊重する姿勢が重要だと主張しています。人々を動かすためには、指示や命令よりも協力や共感を重視し、相手を尊重する態度を持つことが必要です。 これらのポイントは、「人を動かす」の中でカーネギーが強調している重要な要素です。相手との関係を改善し、コミュニケーションを円滑にするため   いやはやChatGPT先生は本当にすさまじい。ものの5秒で綺麗なまとめが返ってきた。念の為、他のブログなどを漁ってみて『人を動かす』の内容まとめと比べてみても、全く遜色にないどころか、こちらのほうがシンプルで要点がわかりやすい。   端的にいうと、誠実に他人に向き合えってことな気がする。相手に関心を持ち、相手の立場に立って、批判するのではなく理解してあげて、相手を尊重する。 これが人を動かす、言い換えたら、人に好かれて尊敬されてリーダーシップを発揮するための、黄金律なんだ。   これを忘れてはいけないな。 ぱっと見ると、そんなに難しいことじゃないように見えるし当たり前のことが書いてあるように見える。 でもこの当たり前を『日々実践する』となると、一気にハードルが上がる。 自分に余裕がない時や、視野が狭くなっている時など、このことを忘れて、ともすれば前述の僕の発言のような、相手を思いやれない、完全なエゴにより言葉を発してしまうことが往々にしてある。 そんなことをしていたら、すぐに他人を傷つけ、他人から愛想を尽かされ、孤独になり、罪悪感や自己嫌悪感に苛まれることになるだろうな。…

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「努力する人」よりも「楽しむ人」が成果を出すらしいけど、仕事なんて楽しくなくね?って話

今日以下のツイートを見た。 みやぞんの「実る努力」と「実らない努力」の話が本質すぎる pic.twitter.com/TVMyT8EQBe — びっとらべる (@bit_ravel) May 9, 2023   端的に内容を書くと 「同じ努力でも、苦しみに耐え抜いた努力は実らない。自分がハマっていて楽しくて苦痛に感じない、努力とも言えないような努力こそが、実るんだ。」 といった趣旨の内容である。   じつは、紀元前5世紀ごろに、同じ内容の言葉を、中国でもかの高名な孔子が語っている。 「天才は努力する者に勝てず、努力する者は楽しむ者に勝てない」 2000年以上前から言われているこの言葉が残り続けているのも、みんなうすうすそうおもってるからだろう。   こういう『好きこそ物の上手なれ』的な考え方は、時代を超えた真実と考えてもいいだろう。   それでもひとは、なぜかこの真理を見失いがちだと思う。 例えば 「苦しんだ先に栄光がある。」 「石に齧り付いてでも努力を続けるべきだ。」 「作業を楽しめているうちはまだまだ二流。」 みたいな、成功を求めるものには苦行が必要であるような趣旨の発言をチラホラ聞く。   これも、部分的には正しいと思う。苦しんで努力して、辛い日々を乗り越えて、自分との戦いに耐え抜いた上で成果を出す人はある程度いることは疑いようもない。   だけど、みやぞんや孔子の発言の趣旨は、苦しんで努力する人間よりも、楽しんでいる人間の方が『より一層』成功しやすくて、努力が実りやすい。そんなニュアンスなのだとおもう。 『より一層』というところがポイントですね。『比較的』といってもいいかもしれない。   大谷翔平が、前代未聞の野球星人になる上で、野球をやめたい気持ちを抑え込んで苦しみながら猛烈なトレーニングに耐えたような印象はない。 大谷翔平の発言からは根本的に野球がとにもかくにも大好きに見える。野球で成果を出すための努力を苦痛だと思ってるようには受け取れない。 もちろん彼の人生振り返れば嫌なこともあった可能性はあるが、圧倒的に野球好きなのは間違いないといっていいだろう。   そして、ほとんどのひとが、改めてこのように言われるまでもなく、自分が好きで仕方ないことに出会い、毎日それに打ち込んで幸せな時間を過ごしながら、圧倒的な成果や成功を手に入れたいと思うはずだ。 しかし改めて周りの人を見渡してみると、そこまで本気で打ち込めるようなことにも出会っておらず、ただ漫然と好きでも無い仕事を日々こなし、好きでも無い勉強をして、好きでも無い資格をとり、好きでも無い人と、好きでも無い会社で、人生の大半を過ごしている人が多いんじゃ無いだろうか。 多くの人が月曜日を憂鬱に感じ、やれ華金だ、GWだと舞い上がっているのが十分な証拠だろう。誰も口に出さないだけで、ほとんどのひとが「全然好きでもなんでもない仕事」を無理やりこなす人生を送っているといっていいだろう。   それはなぜか。真剣に向き合ってみたい。 なぜならぼくも他ならぬその一人だし、正直にいえば大して好きではないプログラミングに日々取り組んでいて、自分が思い描くような成果を十分に得られているわけでは無い。(まぁ比較的満足はいっているが、まだまだ十分じゃ無い)   好きなことに打ち込んで、楽しみながら人生大成功する、そんなことって可能なんだろうか。   まずそれを考える上で一つの思考実験をしてみたい。 『寝ること』が大好きな少女は、『寝ること』にひたすら取り組み続けて大成功できるだろうか。   ・・・・・・   考えるだけ時間がもったいないレベルの愚問ですね。毎日好きなだけ寝ていて成功できるわけない、といっていいでしょう。   では、『肉を食べること』が大好きな少年は毎日楽しく『肉を食べること』を続けて大成功できるだろうか。 これも、否ですね。  …

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「気分が落ち込んでいる時にしか巡り会えないもの」に気づいた話

イタリアから帰国後、数日にわたって時差ボケが続いたことで、まともに夜に寝れていませんでした。 そのせいで、日中ずっと眠いという状態が続いていました。 平時、私はリモートワークなので、ただでさえあまり家から出ないです。 それに加えて、日中のあまりの眠さから、全く外に出ない状態で家に篭り続ける数日間過ごしていました。 日光を浴びずに、まともに運動もせず、ろくな睡眠をとっていない日々が続いていたというわけです。   そんな暮らしをすると、人間どうなるか。端的に言えば、気持ちが病みます。思いっきり、病みます。 いままで、大して不安に思ってもなかったようなことが急に不安に感じたり、過去の自分の愚かな行いが思い出されて赤面していたたまれない気持ちになったり、生きている意味がわからなくなったり。 いろんな形で、自分の内外に潜む闇の部分が、襲いかかってきます。   そんなメンタル状態のときに、人はどんな行動を取るのでしょうか。 ある人は酒を飲み、ある人は知人に電話をし、ある人は思いっきり泣くことでしょう。 僕は、ひたすら本とインターネットに、今の自分を救ってくれる「知識」と「知恵」を求めました。 インターネットで「生きている意味 わからない」と検索窓に打てば、それっぽい答えがずらっと並びますし、病んでる人に向けた「頑張らなくていい」「ポジティブシンキングのすすめ」「孤独に耐えよ」的なメッセージを伝える本は山ほどあります。 そういったものをひたすら探し求め、読み耽っていました。 こういう時間が生産的なのかそうでないのか、僕には判断ができませんが、人生の中でたまにはそういう時間があると、平時には出会えない知識や知恵に出会い、新しい価値観や視点といったものが自分の中に芽生えるもので、こんな時間もあっていいのかなと思います。   そこで、僕は出会いました。アラサーになっても中身は思った以上に少年で、まだまだ脆くて弱い僕が、心に染みるいくつかの言葉に出会いました。そしてその言葉は同じ人物から発せられたものでした。 日頃、そんじょそこらの言葉では心が揺れ動かなくなってきたはずの僕が、顎にパンチをクリーンヒットされたようにぐらついた、いくつかの言葉。 僕の漠然とした不安をそっと和らげてくれる言葉。座右の銘というとなんか安っぽく聞こえる。僕の人生と心を支えてくれる言葉という方がしっくりくる。そんな言葉に出会えました。 正直、楽しい気分の時に出会っていても気にも留めなかった言葉かもしれないです。こういう「自分を強く支えてくれる言葉」って気分が落ち込んでいる時にしか巡り会えないんだと思います。   その方は、1909年2月3日に生まれ、1943年8月24日(享年34)に亡くなったフランスの哲学者、Simone Weil(シモーヌ・ヴェイユ)という方でした。   ↑シモーヌ・ヴェイユさん。   不安に苛まれている僕にとって救いになるような温かい言葉が非常に多く、励まされました。 僕の不安とは、具体的に、将来にわたってお金を稼ぎ続けられるかとか、自分にはなんの才能もなくこのままなにも”意味”を残さず死んでいくのか、とか、そういうものです。 そういうものに対する救いでした。救われた言葉がいくつかあるので以下に挙げていきます。   まず一つ目の言葉。 「天才とは、暗い闇夜を乗り越えていく力の異名のことです」   これは、万人受けする言葉かどうか、僕は知らないしあまり興味もない。 僕にはひたすらに刺さった。   僕はエンジニアとしての目標があります。 自分のアプリを開発して、人に使ってもらい、それで自分にも経済的な恩恵(つまり成功)がもたらされる状態になりたい、というものです。 会社に属したり、他の人の依頼を受けて開発をしたりするのではなく、自分のアプリやサービスで食べていきたい。そしてそれで世の中に自分の存在を知らしめて、自分の価値を証明したい。 そんな思いがあります。   でも、現実はそんなにあまくない。今時点で自分のアプリで毎月大学生のアルバイト代くらいは稼げているが、一生自分が食べていったり、旅行をしたり、人生を謳歌するだけの十分な金額ではない。 さらに、いまは本業とも言える受託開発(他人のシステム開発への従事)や英語学習やブログ記事執筆に日々時間を取られて、自分一人でのアプリ開発が自分の想像の十分の一くらいのスピードでしか進んでおらず、大いにフラストレーションが溜まっている。   そんな中でこの「天才とは、暗い闇夜を乗り越えていく力の異名のことです」の言葉はありがたかった。救われた。 まず、天才を、先天的なものとして語っていない部分に救いがある。「暗い闇夜を乗り越えていく力」を身につけることで、天才になれるということだと解釈しています。 そして「暗い闇夜」とは、いまのぼくのような、目指すべき目標に近づきたいのに近づけていないし、進んでる方向が正しいかもわからない、でも手探りで暗闇を進んでいる、そんな状態を指しているのかなと思っています。 その状態は誰しも辛いけど、それを乗り越える力こそが天才である、というこの言葉により、いまこの闇夜の状況に耐えている自分自身が肯定された気持ちになりました。 天才と言われる人は、皆この状況を乗り越えたんだな、となんとなくイメージが喚起され、励まされました。   二つ目の言葉は、 と思いましたが今日は疲れたのでこの辺りで終わろう。 読者の方がいたら、適当ですみません。これは自分の思考力を深めるための、ある意味わがままなブログなので許してください。  …

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MacBookProのOSを13.3(Ventura)にアップデートしたらUSBハブや外部モニタの接続がぶっ壊れた話

(記事末尾に追記あり)   今日Macがぶっこわれた。 MacBookProのOSを13.3(Ventura)にあげて、数日ほどパソコンを使っていたら(ポイント)、ある時を境にUSBハブ経由でのMacへの接続ができなくなるとともに、外部モニタへの直接のHDMI接続も不安定になった。 (先に言っておくと残念ながら解決には至っていないが、解決の糸口はあるので記載した。結果は後日気が向いたらupdateする。) 数日間問題なく動いていたのに突然ダメになるって、かなり困る。 特に闇サイト的なところにアクセスするなどの外部から攻撃を喰らってしまった心当たりもないのでなおさらやっかい。 具体的な症状としては、マウスやキーボード、充電ケーブル、外部モニタなどの外部のデバイスとの接続時に使う『USBハブ』といういろんな端子をまとめてぶっさせる、ハーモニカほどのサイズの機械を、Macが全く読み込んでくれなくなったのだ。 USBハブとは以下のような商品だ。 エンジニアという職業柄、プログラミングをするために、外部のでかいモニタはどうしても使いたかったので、接続するためのHDMIケーブルを直接Macに差し込んでみたが、それでも全然認識してくれない。 たまに認識してくれるかと思ったら、普段ならたくさん選べる解像度の設定値の種類がまともにでてこず、2つしかでてこなくて、僕の巨大外部モニタでは画面が横にびろーんって伸びて表示されるという目も当てられない様だ。 エンジニアとしてのプライドもあり、なんとか自力で解決しようと、ゴリゴリに調査していろんな問題の切り分けを行ったが、結局解決に至らず。   結局、Appleサポートセンターに問い合わせた。 Chat機能があり、まるでLINEで超詳しい友達に懇切丁寧に説明してもらっているような気分になり、なぜかすこしときめく。 大企業ならではの、素晴らしいサポート体制だ。 (一方で、こういう仕事はAIの得意分野だなぁ、いつか仕事が奪われていくんだなぁ、と無駄にうら悲しい気持ちになった。。)   そのチャットで、こちらも現在の状況や試したことを事細かに説明して、向こうからの質問にも認識ズレのないように慎重に回答したところ、OSを再インストールしてください。という指示が来た。 具体的には以下の2ステップ。 https://support.apple.com/ja-jp/HT201250 https://support.apple.com/ja-jp/HT204904   バックアップを取るHDDがないので、ヨドバシエクストリームで即注文し、明日届く。 Amazonだと2日かかるけど、ヨドバシは1日で届けてくれる。これがあるからヨドバシを(たまに)使うし、これこそ涙ぐましい企業努力、って言えるよな。そしてその企業努力もちゃんとこうしてある程度の成果を出しているわけで。 でもヨドバシをメインで使う気にはなれないな。なんか慣れなんだよね。慣れ親しんだAmazon。なんのストレスもなく、脳死でポチれるAmazon。そしていろんなものが買えるAmazon。ヨドバシは、どれだけ努力しても本命彼女にはしてもらえない女の子のような悲しい存在なのかな。資本主義ってシビア。   というわけで、まだ解決には至っていないけど、少し光明が見えてきて心が束の間の休息を迎えた。 古いOSで普通にできていたことが新しいOSでできなくなる時のストレスってすさまじいよね。時間と技術を投下して開発された時代の最先端のOSのはずなのに、超絶基本的なところで詰まってて、進歩してないどころか退化してるって、そりゃないよ。エンジニアの僕にとってMacは唯一無二の商売道具なのでなおさら。   ちっちゃなMacBookのモニタで頑張ってブログ書きました。 終わり。     (2023/5/11追記) Appleサポートの指示にしたがってOSの再インストールを行ったが結局ダメ。 が、ふいに、MacBookの左右の側面に合計3つある USB type C のポートのうち左の2つしか試していなかったことに気づき、右側のポートで試したら、なんとUSBハブ経由での諸々の外部デバイスの接続に成功し、外部モニタの解像度の問題なども解消された。 以前として左側のポートはまともに使えないが、とりあえず右側でなんとかなった。 もしかすると左側だけなんかしらの理由で故障したかもしれないので、修理屋に持っていこうと思います。 結果がわかれば後日UPDATEします。(気が向いたら。)   (2023/5/12追記) 修理屋に持っていったらどうやらハードが故障している可能性が高そうとのこと。 USBポート周りの基盤なのかなんなのか、とにかく中身の機械的・電子的な部分がぶっ壊れている可能性ありとのこと。 ソフトには問題なかった。 修理に数万と数週間が奪われるので、修理に出さず使っていこうかなと。   長い戦いでしたが、以上です。誰かの役に立てば。

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なぜ、文章を書くことを異常にきらっていた僕が、突然、毎日数千文字の文章を自発的に書くようになったのか?

これまで理系人間まっしぐらで生きてきて、いまもプログラミングで生計を立てている僕にとって、文章を書くことは非常に退屈な作業であった。 「退屈な作業であった」と過去形にしているのは、最近まったく「書くこと」への捉え方が変わってきたからだ。 いまや、書くと言う行為にある種の魅力を感じ、取り憑かれている。 夜な夜なパソコンに向かい、キーボードを叩くようになった。全く文章を書いていない日は歯磨きをしないまま寝るような気持ち悪さがあり、どうにも耐えられない。   なぜ、文章執筆を異常にきらう筆無精の僕が、突然、筆のとりこになり、毎日数千文字の文章をだれに指図されるでもなく書くようになったのか? 小学生時代から読書感想文が大嫌いで、適当に世の中に出回ったどこぞのだれかの読書感想文をコソコソと書き写してなんとかやり過ごしてきたこの僕が、なぜ? ピーマン嫌いの子供が、突然ピーマン大好きになるだろうか?   理由は明確で、人気YouTuberヒカルの「心配すんな。全部上手くいく。」という本を読み、自分に圧倒的に足りていない行為が「書くこと」だと悟ったからだ。 言い換えれば、いまの自分に足りていないコミュ力、思考力、カリスマ性、人間的魅力、といったものが、書くことによって手に入ると確信できたからだ。 この本の衝撃は以下の記事にも書いたので興味のある方はぜひ見てほしい。 人気YouTuberヒカルの「心配すんな。全部上手くいく。」を読んで衝撃が走った   この本を読み、「書くこと」への興味が異常に掻き立てられたので、数年間放置していてインターネット界のデブリと化していたこのブログに、ひたすら記事を書き始めた。 それとともに、もっと「書くこと」の効果を知りたくてたくさん「書くこと」に関する本を読んだ。 途中までしか読んでいないものもあるが、読んだ本を挙げると、 このあたりだ。どれも「書くこと」の魅力や、完全な素人がどうやって書いていけば効果的に書くことの恩恵を受けられるのか、また書くモチベーションをどのように維持するのかなどが書かれていて、非常にためになった。   そしてこれらを読む中で、「書くこと」についての重要な知見の多くが共通していることに気づいた。 その内容を以下に書き残す。 そもそも文章は、しっかり考えてから考えたことを書くのではなく、まず書きはじめることが非常に重要である。理由は、書くことがおっくうにならないようにするため。とにかく書き始めれば御の字と思ったら、自然と手が動く。書きながら考えを深めていけばいい。 誰に読ませるために文章を書くのではなく、自分のために書くべし。きれいな文章にしなくていい。だれかに読まれることを意識すると、よそゆきのお化粧した文章になって、全然だれにも刺さらない。心の声をそのまま書き出していけばいい。驚いた、とか書かずに「うわぁぁぁ」とか書いちゃえばいい。 文章を書くことで考える力が格段に伸びる。考える力が伸びると、当然会話する力も伸びる。話題にも困らなくなる。 文章を書く習慣がつくと、文章を書くネタを探すために、世の中をよく観察するようになる。そうなると観察力が高まる。よく観察して、考察して、文章に起こしていくことで、他の人にはない独自の視点が育まれる。 これらは、複数の本を読んだ上で、僕の独断と偏見で抽出した重要なポイントだ。   いまにして思えば、過去の偉人だって文章を書いてた。偉人というかカリスマと言われる人々だ。カリスマが、言葉を巧みに操れないなんて、考えられないだろう。 周りの人から「このひとなにいってるの?」「この人の考え浅いな〜」とか思われているカリスマなんていないでしょう。   例えばユリウス=カエサルはガリア戦記を書いたし、ヒトラーは我が闘争を書いた。 キリストやブッダ、孔子あたりは、文章を書いたというより弟子が聖書なり論語なりを書き起こした様子だが、まぁ誰が書き起こしたにしろ、書いたと同等の作業をしているといっていいと思う。(ここでは口述筆記をイメージしているが実際は違うかも。まぁ言葉が巧みだったことは間違いないでしょう。) 現代でも、マツコデラックスはコラムニストだし、ヒカルや与沢翼などの魅力的な言葉を発する人は情報商材を売るための文章をセコセコ書いていたわけで。(ぼったくり商材を肯定する意図はない)   つまり、カリスマというか、他人を惹きつけるため人間になるために、言葉の力が不可欠で、そのために「書く作業」が最適なんだと結論づけていいと思う。 もちろん、書くことをしていなくても、自然に身につけた人間的魅力や圧倒的な実績(大谷翔平的な)によって他人を魅了することができる選ばれし人間もいる。 一方で、選ばれし人間ではない、と薄々勘付いている人は、別に肩を落とす必要もなく、ひたすら書く習慣をつけていけば良いのだ。 僕は30代になってようやく自分のカリスマ性の無さ、言語化能力の弱さ、対人スキルの低さに気づいて、割とうちひしがれていたので、この事実に気づかされてすごく気分が明るくなった。   日頃なんとなく会話しているだけでは決して到達できない言語能力の高みに至れるんだよ。やるしかないでしょ。 言語能力の高みに至れば、どう考えても、仕事、恋愛、人付き合いにおいて有利だし、自己肯定感もマックスまで上がるし、なによりいろんな人と臆さずに関われるようになって最高に人生が花開くはず。   ましてや、フルリモートで働ける時代。 人との関わりも薄くますますコミュニケーション能力が自然には上がっていかないので、なおさら書く習慣をつけるといいとおもう。   完。

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英語学習を本格的に開始

イタリア旅行に行って痛烈に感じたことに「英語をもっと話せたら人生超楽しいだろうな」っていうものがある。 英語を話せるということは、自分の生きる世界が日本だけに閉じてしまわないということだ。 そもそも日本は、料理もおいしくて、街も綺麗で、治安も良く、物価もそこまで高くないという、大変に住みやすい素晴らしい国である。 日本で生まれて普通に暮らしているだけでも、十分に幸せなことだろう。   しかしながら、海外に出ると、日本にない魅力を感じることが多々ある。 人の明るさだったり、仕事や対人関係の良い意味での適当さだったり、単純に気候がよかったり。そういったものに思う存分に触れて、いろんな国のいいとこ取りをしていくことは楽しく幸せに生きる上で欠かせないんじゃないか。 そのためには英語がもちろん不可欠である。 また、日本という国でしか生きられない状態だと、リスクがある。ずっと日本で暮らしていると気づきづらいが、経済力も落ち、人口も減りつつあるこの衰退国家日本でいつまでこの快適な暮らしができるのか、保証なんてない。 いつでも脱出できる状態にしておくことは心の余裕につながるだろう。   ただ、英語学習はなかなか骨が折れる。単語力、文法などの覚えることが多々ある上に、異常に膨大な量の英語に触れて慣れていかないといけない。時間と精神力を大変に要する作業。 それに、中学校、高校の6年間は少なくとも英語に触れてきたのにめっきり会話ができないなんて珍しくなく、それを大人になって仕事等に忙殺される日々の合間を縫ってマスターすることなんて本当にできるのか、という疑いの気持ちを抱いてしまい、モチベーションもなかなか上がらない。 数多くの人が、英語を学ぼうと取り組み始めては数週間も学習が持続せずに頓挫しているんではないか。 英語学習は、ある意味で禁酒や禁煙とかと一緒だとおもう。相当な根気と自分に打ち勝つ強さとモチベーションの維持が求められる。 しかしその困難を乗り越えたら、得られるものは大きい。海外の人と関わることで自分の世界が広がり、凡人レベルを逸した英会話スキルを持つことで周りからの尊敬も集められ、困難に打ち勝ったんだという自信にもつながる。   で、英語に限らずなににおいても、スキルを習得するときには、闇雲にトレーニングを始めるのではなく、最適な方法を選び抜いて最短ルートを駆け抜けることが必須だと思う。 人生でやりたいことがたくさんある中で無駄な学習に時間を割いている時間はない。 効果的な学習方法についてはDJ社長の以下の動画がめっちゃ参考になるのでぜひ見てほしい。DJ社長はいろんな動画を見たが、頭がいいと言うか要領が異常にいいことがわかっているので、この動画も信用していいとおもう。   この動画を見ても、義務教育で強制的に受けさせられた学習方法とは全く異なってる。 我々大半の日本人は、義務教育を経ても英会話ができない現状を直視して、義務教育とは全く別の学習アプローチをする必要があるのは当然のことだと思うのだが、それを確立してくれているのが上記の動画。 あとは、根気強くどれだけ続けられるか。 そのために、英語圏にたまに旅行に行ってみるとかもありだと思うし、国内のバックパッカー向けホステルみたいなところに出向いてそこにいる来日中の外国人と会話してみるとか、あの手この手でモチベーションを保っていこう。   これからしばらく、自分の納得いくレベルになるまで、ひたすら英語に打ち込んでいこうと思う。

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イタリア旅行の総括

どうも、みりおです。 4/27〜5/4までイタリア旅行に行っていたので、このブログに所感を残します。旅程を日記のように記すような退屈なことはしません。それは他でやってます。 どちらかというとマジで心動いた瞬間や、思考がぐらついた瞬間、僕の人生に何か影響を与えた瞬間を切り取って記します。 この記述は、誰に見せるつもりもなく、勝手に見てくれる分にはいいが、メインの目的を「僕の思考力向上」としているので、独特の文章になるかもしれない。それだけご留意いただきたい。   海外に行くと、アジア人は、「あれ、自分、塩対応されてないか?」「なんかうっすら嫌われてないか?」「かすかに相手からの見下した雰囲気を感じる」といったような、大袈裟に言うならちょっとした差別的な扱いを受けるシーンがある場合がある。 これは僕の旅行体験によると、アジア人自身の性質にいくぶんの原因がある。 理由は、英語がまともに話せない、外見がしょぼい(自分で改善できる部分の話。どうしようもない部分は、当然どうしようもない。例えば体格がひょろがりだったりファッションがクソダサなど)、礼儀が欧米式でない、という3点がある。 もう説明するまでもないが、これらの性質を備えた人間は、アジア人だろうと、何人だろうと、好かれないし、温かく受け入れられないのは当然のことだとおもう。 仮に、同じ日本人を想像してみたときに、言語能力不足のためにまともに会話が成り立たない相手だったり、あまりにもみすぼらしい外見をしていたり、礼儀がなってない人間に、親切にフレンドリーに関わるだろうか。 僕は、申し訳ないけど、聖人君子ではないので、そんな人間に多少なりとも嫌悪感を抱く。 言葉を選ばずに言えば、僕はそんな人間を見ると「なんだこいつ、、、きもっ、、」とまず第一に思うのだ。 これを差別的、と呼んでくれても、冷たい人間だ、と罵ってくれても良い。本心だから。うそはつけない。世の中にこの考えをオープンにしても叩かれるだけであることを僕は知っているけども、自分に嘘をつけないし、この記事に嘘をかくつもりもない。(本音を解像度高く言語化することが、ブログを書く目的だから)   結論、海外でいろんな人と親しくなって、いろんな価値観を学び、文化を知り、自分を成長させたければ、まず英語を極めて、体つきや服装をだれがみても恥ずかしくないレベルに高めて、欧米文化の礼儀やマナーを知ることだ。 これからの時代、英会話はAIによって実現され人間が頑張る必要もない、と言う意見もわかるが、そう言われ続けて数十年経つのにまだ完全には実現していない状況にすがりつづけるのか?甘いよね。自力で掴み取れよ。 そもそもが英語なんてそんなに難しくない。日本のクソ教育システム制度のせいで最低限の読み書きしかできない日本人が大量生産されているが、まず会話を学ばないと。聞いて、話す。それを最優先にしよう。そのためには特別な訓練が必要だ。日本の教育じゃ賄いきれない。考えて、調べて、会話するコミュニケーションを積まないと。   海外で受け入れられる人間になることによって、人生の可能性は、本当に大きく開ける。 日本で仕事が見つからなくたって、英語圏で見つければいいじゃない。日本で友達や恋人が見つからなくたって、海外で探せばいいじゃない。日本に飽きたり、日本の政治に不満があれば、海外で暮らせばいいじゃない。   こんな偉そうに語る僕も、まだまだ海外に本当の意味で通用する人間ではないから、自己研鑽が必要ではあるけれども、日本で鬱屈とした日々を過ごすひとはここに活路を見いだすしかない。 というかそっちのほうが、日本という狭い世界でうまいこと生きている人よりも、広い世界で自分の居場所を見つけられるので断然幸せに生きられる。   正直な話を言えば、この「差別はよくないよ!」的な、ポリティカルコレクトネス賛美の時代においても、無意識レベルのアジア人差別はなかなか無くならないと思う。 でも。でも。 だからなに?向こうが勝手に見下してるだけでしょう。こちらが海外に通用する人材になり、「差別をされる理由などない」ことを海外の一般レベルの凡人に対して明確に主張できる自信があれば、気にせずに堂々と楽しく生きていける。 要は、英語を聞き取れず半笑いでニヤニヤしていたり、眉毛を剃り込んでプリントパーカーを着込んだダサいファッションをしていたり、犬食いマンとかクチャラーだったり、そういうところを最低限直して、馬鹿にされる要素を丁寧に取り除けば、差別されることなんてまずないし、無意識に差別してくる悪魔くんたちには正々堂々議論をするつもりで生きれば何恐れることはない。   強く生きていこう。日本人は優秀で強い。海外のいけすかねぇやつらに見せつけていこう。 今日はこれで終わり。