どうも、みりおです。
4/27〜5/4までイタリア旅行に行っていたので、このブログに所感を残します。旅程を日記のように記すような退屈なことはしません。それは他でやってます。
どちらかというとマジで心動いた瞬間や、思考がぐらついた瞬間、僕の人生に何か影響を与えた瞬間を切り取って記します。
この記述は、誰に見せるつもりもなく、勝手に見てくれる分にはいいが、メインの目的を「僕の思考力向上」としているので、独特の文章になるかもしれない。それだけご留意いただきたい。
海外に行くと、アジア人は、「あれ、自分、塩対応されてないか?」「なんかうっすら嫌われてないか?」「かすかに相手からの見下した雰囲気を感じる」といったような、大袈裟に言うならちょっとした差別的な扱いを受けるシーンがある場合がある。
これは僕の旅行体験によると、アジア人自身の性質にいくぶんの原因がある。
理由は、英語がまともに話せない、外見がしょぼい(自分で改善できる部分の話。どうしようもない部分は、当然どうしようもない。例えば体格がひょろがりだったりファッションがクソダサなど)、礼儀が欧米式でない、という3点がある。
もう説明するまでもないが、これらの性質を備えた人間は、アジア人だろうと、何人だろうと、好かれないし、温かく受け入れられないのは当然のことだとおもう。
仮に、同じ日本人を想像してみたときに、言語能力不足のためにまともに会話が成り立たない相手だったり、あまりにもみすぼらしい外見をしていたり、礼儀がなってない人間に、親切にフレンドリーに関わるだろうか。
僕は、申し訳ないけど、聖人君子ではないので、そんな人間に多少なりとも嫌悪感を抱く。
言葉を選ばずに言えば、僕はそんな人間を見ると「なんだこいつ、、、きもっ、、」とまず第一に思うのだ。
これを差別的、と呼んでくれても、冷たい人間だ、と罵ってくれても良い。本心だから。うそはつけない。世の中にこの考えをオープンにしても叩かれるだけであることを僕は知っているけども、自分に嘘をつけないし、この記事に嘘をかくつもりもない。(本音を解像度高く言語化することが、ブログを書く目的だから)
結論、海外でいろんな人と親しくなって、いろんな価値観を学び、文化を知り、自分を成長させたければ、まず英語を極めて、体つきや服装をだれがみても恥ずかしくないレベルに高めて、欧米文化の礼儀やマナーを知ることだ。
これからの時代、英会話はAIによって実現され人間が頑張る必要もない、と言う意見もわかるが、そう言われ続けて数十年経つのにまだ完全には実現していない状況にすがりつづけるのか?甘いよね。自力で掴み取れよ。
そもそもが英語なんてそんなに難しくない。日本のクソ教育システム制度のせいで最低限の読み書きしかできない日本人が大量生産されているが、まず会話を学ばないと。聞いて、話す。それを最優先にしよう。そのためには特別な訓練が必要だ。日本の教育じゃ賄いきれない。考えて、調べて、会話するコミュニケーションを積まないと。
海外で受け入れられる人間になることによって、人生の可能性は、本当に大きく開ける。
日本で仕事が見つからなくたって、英語圏で見つければいいじゃない。日本で友達や恋人が見つからなくたって、海外で探せばいいじゃない。日本に飽きたり、日本の政治に不満があれば、海外で暮らせばいいじゃない。
こんな偉そうに語る僕も、まだまだ海外に本当の意味で通用する人間ではないから、自己研鑽が必要ではあるけれども、日本で鬱屈とした日々を過ごすひとはここに活路を見いだすしかない。
というかそっちのほうが、日本という狭い世界でうまいこと生きている人よりも、広い世界で自分の居場所を見つけられるので断然幸せに生きられる。
正直な話を言えば、この「差別はよくないよ!」的な、ポリティカルコレクトネス賛美の時代においても、無意識レベルのアジア人差別はなかなか無くならないと思う。
でも。でも。
だからなに?向こうが勝手に見下してるだけでしょう。こちらが海外に通用する人材になり、「差別をされる理由などない」ことを海外の一般レベルの凡人に対して明確に主張できる自信があれば、気にせずに堂々と楽しく生きていける。
要は、英語を聞き取れず半笑いでニヤニヤしていたり、眉毛を剃り込んでプリントパーカーを着込んだダサいファッションをしていたり、犬食いマンとかクチャラーだったり、そういうところを最低限直して、馬鹿にされる要素を丁寧に取り除けば、差別されることなんてまずないし、無意識に差別してくる悪魔くんたちには正々堂々議論をするつもりで生きれば何恐れることはない。
強く生きていこう。日本人は優秀で強い。海外のいけすかねぇやつらに見せつけていこう。
今日はこれで終わり。
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