お笑いコンビ「オードリー」のツッコミ、若林氏の書籍「ナナメの夕暮れ」を読んだ。
若林氏は過去に数回書籍を出版しているようだが、今回僕は彼の著書を初めて読んだ。
この本を読むまで僕は、若林氏をテレビで見かけたときに、「同族嫌悪」のようなものをうっすら感じていた。
(正直、同じような感覚をフットボールアワーの後藤さんにも抱いている・・・)
きつい言い方になるが、僕から見た若林氏は「空気を読み過ぎた結果当たり障りのないことしか言えない人間なのに、自己認識や自分の理想像はもっと高くて、現実の自分を受け入れられず苦しんでいる」ように感じられていた。
そして他でもない僕自身も、同じような面があるからこそ、同族嫌悪を感じているのだ。
しかし、この本を読んだ後、若林氏への見方が大幅に変わった。
若林氏も、彼自信のかつてのその欠点に気づいているどころか、その欠点に苦しみ、考え抜いてなんとかご自身なりに折り合いをつけてきたのだ。
その折り合いの付け方が、非常に含蓄に富むもので、共感するとともにたくさん学ぶことができた。
非常に良書だった。
引用しつつ、本の感想を綴っていこうと思う。
自分の意見がなく、他人に合わせるだけだった過去の若林氏
若林氏は若い頃の自分について、
他人の意見や考えに自分を合わせ続けた結果、自分が何をしたいかよくわからなくなっていた
と分析している。
具体的には以下の記述があった。
なぜ、幼稚園の時に正直に「バスの運転手になりたい」と言えなかったのか。なぜ、小学生の時にバットが当たらず、且つ球が取り易い位置に自然にキャッチャーミットを構えなかったのか。他人の正解に自分の言動や行動を置きに行くことを続けると、自分の正解が段々わからなくなる。バスの運転手になりたいのかどうかがよくわからなくなるのだ。
(中略)
他人の正解に置きに行くと、例えばその場に人数が多い時に、どの人の正解に置きに行っていいかわからなくなり、キョロキョロおどおどすることになる
若林 正恭. ナナメの夕暮れ (Japanese Edition) (pp.22-23). Kindle 版.
これは僕にも似た経験があり、ものすごく刺さった。
僕も基本的に自分の考えというものをあまりもっておらず、なんとなく声の大きい人の意見に従って生きてきた。
仮に自分の意見が多少あったとしても、他人の意見の方がそれっぽく聞こえていた。
たまの機会に自分の意見を言おうにも、自分の言葉ではなく、過去に聞き齧った他の誰かの言葉でしか語れなかった。
そうなってしまった原因はいくつかあるだろう。
まずは、言語化能力の低さ。
自分の気持ち、感情、意見、考え、というものがぼんやりとあっても、それをうまく言葉にできないから、なんとなくもやーっとしたイメージだけはあるものの明確な意思として現れてくることがなく、結局何も意見がないのと同じ振る舞いになってしまう。
次に、自分の意思を表明した頻度の少なさ。
例えば小さい頃に親や友人に意思を表明しても受け入れられなかったり、頭ごなしに怒られたりして、自分を表現することを徐々に恐れていったひとは、ますます自分を表現しなくなってしまう。その積み重ねが他人に付和雷同する性格を作り上げていった可能性がある。
学生時代であれば、他人に同調するだけでも生きていけるが、社会に出ると大抵の人は意見が求められるようになる。
学生時代の友人などに久々に会うと、あまり主張の激しくなかった人もはっきりと意見を表明するように変化していたりするので、案外みんな社会に出てからこの課題を克服していくものなのかもしれない。
僕もブログなどを通して、意見をはっきり表明できるトレーニングをしているわけで。
自分の気持ちを言語化した上で、勇気を持って相手にうまく伝えるというのは、気持ちよく楽しく人生を送るには必要なスキルですね。
テレビに映る自分を見て嫌悪感を感じていた若林氏
若林氏は自分自身の振る舞いに強烈な嫌悪感を抱いているようだ。
本の中に以下の文がある。
いろいろなことに心を配りながら話しているテレビの中の自分の顔を見ていると吐き気がするからだ。心身の調子のいい日に、部屋にあるエアロバイクを猛スピードで漕ぎながら一気に見ることにしている。
若林 正恭. ナナメの夕暮れ (Japanese Edition) (p.26). Kindle 版.
ここまで正直に自己嫌悪感を表明できる点に、若林氏の人間的な大きさを感じた。
僕自身、自分に対して嫌悪感を抱く時も多々あるが、そのことを周りに表明するのはなかなか難しい。
他人から「自分に自信のある強い人間だ」と思われたいし、いまは自己嫌悪している欠点でもこれから解決していくはずで一時的なものだと思っているからだ。
若林氏も同じく、おそらく若い頃であれば、僕と同じような理由で、こういう弱みを表明することはできなかったのではないかと推察する。例えば以下の記述を見てもそう。理想の自分を諦めきれていない面があった様子だ。
理想の自分にずっと苦しめられてきた。凡才のくせに、センスのある自分、お笑いファンに一目置かれる自分になりたいと夢見ていた。
若林 正恭. ナナメの夕暮れ (Japanese Edition) (p.45). Kindle 版.
ただ今の若林氏は、年齢によるものか、自身と向き合い続けたがゆえなのか、自分の限界や自分の弱みを完全に受け入れられたということがこの本全体を通して伝わってくる。例えば以下の記述がある。
理想の自分に追いつかないことに苦しんでいるから、自分と世界を呪って、人を嫌な気持ちにさせて、付き合ってくれた彼女を傷つけ、いろんな人に迷惑をかけてきた。なんということだ。理想の自分に追いつこうとしているから、今日の自分を生きることはなく、常に未来の理想化された自分を生きている。だから、今日をずっと楽しめなかったんだ。今日じゃないな、今だな、もっといえばこの一瞬を楽しく生きてこられなかったんだ。37年もね。「今日の自分は本当の自分じゃない。自分というものはもっと高尚な人間なんだ」と言い訳(逃避)をして今日の自分をないがしろにしてきたんだ。
若林 正恭. ナナメの夕暮れ (Japanese Edition) (pp.47-48). Kindle 版.
だからこそ、弱みをおおっぴらにできるのだ。
ただ、正直に言えばこれは「夢の諦め」ではないのかな、と僕は少し思う。
もちろん、諦められたら楽になる。
松坂牛を諦めて、吉野家の牛丼で十分美味いよね、と思って幸せに生きることもできるし、その選択も十分理解できる。
でも。。。
今の僕には「夢を諦めること」は無理だなぁ。やはり一度の人生、高みに行きたい気持ちが捨てきれない。
とことん自分を磨いて、いける限り最大限成功したい気持ちがある。
やはり理想は「楽しみつつ打ち込んで」極めていくことなんだろうな。
大谷翔平が野球を楽しんだ上で成果を出しているように。
ただ、これもまた難しいよな。
かつては冷笑的だった自身を批判的に見る若林氏
この本で、一番印象に残ったのは、若林氏自身が、冷笑的な人間からそうでない人間に変化した点だ。
数年前に若林氏をテレビで見ていた時に、たしかに冷笑的な印象を抱いた記憶があるし、以下のような記述からかつては冷笑的であったことが見て取れる。
お笑いにもポピュリズムのようなものがあって、ちょっと前だったら「ハロウィン」、今だったら「インスタ映え」なんかを冷笑・揶揄すれば笑いが起こりやすいという面もある。
若林 正恭. ナナメの夕暮れ (Japanese Edition) (p.117). Kindle 版.
そして、親父が死んでからは本格的に冷笑・揶揄は卒業しなければならないと思い始めた。死の間際、病室で親父が「ありがとな」と言いながら痩せこけた手で母親と握手している姿を見たからだ。その時にやっと、人間は内ではなく外に向かって生きた方が良いということを全身で理解できた。
若林 正恭. ナナメの夕暮れ (Japanese Edition) (p.117). Kindle 版.
ここから若林氏が「冷笑的であること」に批判的になっていく心理の変化が、この本には克明に記載されている。
僕自身も冷笑的な側面はあるし、日本全体的に冷笑文化がはびこっていると思われるが、これは忌むべきことで、変えていくべきことだとこの本を通して強く感じた。
たとえば、頑張っている人やアツくなってるひとを笑ってしまうような冷笑的行為を続けていると、いざ自分が何かに打ち込もうと思った時に「笑われるんだろう」という気持ちになってしまい、足枷になる。
そんな人生がいいわけがない。日本人全員にとってよくないでしょう。
若林氏の本がここまで売れていて高評価であることを考慮すると、同じような感覚を抱く人が多いのではないだろうか。
その事実が、救いだな。日本の冷笑的な風潮を、少しずつ変えていきたいなと感じた。
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